俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

かもめが翔んだ日

私が前に二年間ナイジェリアのイバタン市に滞在した時の欲求不満は、かつてこの人口百万といわれるアフリカ最大の原住民都市[…]に、喫茶店と古本屋が一軒もないことに集中していた。成る程イバタン大学内の書店は、英語の新本のストックは豊富である。しかし、古本屋のない都市生活というものがこれ程味気ないものであるとは、日本にいてちょっと気がつかなかったことであった。

 

回想の人類学

回想の人類学

 

  『回想の人類学』という題ではあるが、読者の多くは本屋談議が読みたくてこの本を手に取るだろうし、事実そうしたくだりがいちばん面白いと思う。このあと、インド系の古道具屋に古本コーナーがあってバカみたいに安いとか、大学書店の改装のために新本のバーゲンが行なわれていた話とかが出てきて、そんな話を読まされた日には、たいていの洋書読みは、ああうらやましい、とため息をつくだろう。

 ただ、よくわからないのが、払いはどうしていたのかということ。この大先生、パリの書店で大量に本を買ったときは、日本の洋書店の信用状を示して、それでつけ買いをしたらしいことがこの本では語られているのだけれど、ぼく自身はそういう本の買い方というのを実際に見たこともなければ、したこともない。今週も洋書店から新本が一冊届いたけれど、ツケをそのままにする習慣をもたないぼくは、すぐに郵便振替で払ってしまう。ましてネット購入の場合は翌月にはクレジットカードの清算が待っている。

 この先生のまねをしたことがあるとすれば、まだ大学勤めだったころ。札幌の紀伊国屋で10冊くらい洋書を引き抜いて、名刺と一緒にレジへ持っていき、大学へ送ってもらう、ということがほんの何度かだけれどあった。校費で本が買えた頃。主に言語学を一般読者向けに概説したような本で、珍しいものもなかったけど。研究費で買った本は自分のものにならないから、あれももう、ぼくにはアクセスできない本になってしまったのだ。

 私費で買った洋書は山のようにあるわけではないけれど、長年こつこつ買ううちに、蔵書の中でそれなりの層をなしていて、これを読むうちに一生が終わりそうでもある。だから、もう本なんか買わなくったっていいようなものだけど、それでも、いろいろやりくりをして、つい買ってしまうのだ。

 明日は立春だ。去年に引き続いて出していた小さな申請。何とか通ったようで、昨日通知が届く。雪がとけたら、いやもう明日から、始動だ。


かもめが翔んだ日