俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Come Go With Me

ここで〈私〉は、一〇-一五年ほど前に知人から聞いた次のような話を思い出し、それを教授候補に話す。それは一八九〇年代末か一九〇〇年代初め[…]に、ドイツ哲学を学ぶためベルリンに留学したロシア人青年(当時の例にもれず確固たるマルクス主義者であり、現在は有名な文学者)と、彼がドイツ語の練習のために交際したドイツ人青年をめぐる話である。両者はともに哲学を学んでいたが、その目的が異なることがわかった。ロシア人青年は哲学によって政治経済学を基礎づけ、さらにロシアの、そして全世界の社会的解放をめざすという目的を抱いていた。他方、ドイツ人青年にとり哲学を学ぶのは、専攻する教育学に必要であるため、そして教育学は教師という堅実なポストを得るため、堅実なポストは良き伴侶をもつためなのであった。かくして何のため哲学を学ぶか、という問題で互いに相手を理解できない二人は、口論の末、永久に別れたという。

 

  札幌の古書店で買った本。三〇〇〇円の表示がエンピツ書きされている。これは現物が手元にあり、夢じゃない。

 買ったのは二〇年くらい前か。ずっと研究室の書棚で眠っていた。ぼくの、もう存在しない研究室。その書棚は、ごく部分的にだけれど、うちの中に再現してある。ぼくは文学研究で修士を終えたし、思想史なんか専門じゃないんだけれど、ドイツ的なものとロシア的なものの対比をめぐる思想史の講読は一番熱心に出ていたし、文学史だけやっても、こっちを太い支柱としてしっかりと立てなければ全部崩れてしまう気がして、こういう本を買うのがやめられなかった。

 その根本には、西欧とロシアでは「文学」とか「哲学」の持つ意味が、単に語義というよりその社会的コノテーションが、全然違うんじゃないかという漠然とした感じがあって、ロシアでは広い意味での〈社会思想〉を走らせるためのレールとして「文学」とか「哲学」がある、ような感じがいつもしていた。むろん、文学ってそういう社会的有用性や実際的効用とは関係ないんだぜという宣言が、二〇世紀の未来派の詩やフォルマリズムの理論なんだろうけど、なんというか、それがことさらに新しかったのは、上に引いたようなロシア的な知的土壌があってこそなんじゃないのかと思ったり。

 議論がしたい。議論しないと気が狂いそうだ。けれど、まわりには相手もいないし、老母と昔の引き揚げの頃の話なんかしてるこの頃。一月がなかなか終わらないのが、何とももどかしい。


Come And Go With Me- The Dell Vikings

 

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