俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

冬景色

小説が読まれなくなったといわれて久しい、とまでいわないが、一種のバブル現象は消えた。昔と比べても詮方ないが、大正時代初版三千部で、一族郎党親戚縁者恩師弟子友人たち、大喜びして、祝宴を張ったらしい。読者が一万人いれば小説の場合、書き手は幸せ、といっては失礼、天才である。売れない、というより、読んでもらえない私が、こんなことをいうのは烏滸がましいもいいとこだが、娯楽も、純も、Jも関係ない。自分が不器用だからお節介と判りつゝ小説を書くなら、ワードプロセッサーを使うのは止めた方がよろしいように思う。かの電子印字機以後、はっきり「小説」は変わった。飲みながら、新鋭鬼才の作品を、読む。まず、くだらない。余計なことを書き過ぎ。会話が下手、こねくり回し過ぎ──

 

 

妄想老人日記 (中公文庫)

妄想老人日記 (中公文庫)

 

  「娯楽も、純も、Jも」との接続が今ひとつわからないのだが、ワードプロセッサーは使わない方がよろしいという指摘には聴くべきものがあり、それはそうだそうだワードなんかで小説書くんじゃねえという賛同の意味では全くないのだが、書字のモードの変化が書かれる言語のありように関係ないはずはなく、だからこそサリンジャーライ麦畑を書いたときそれはタイプライターを使っていたのかなどという自分にとっての長年の問いもあるのであって、ロシア語で言う「スカース」つまり一種の民話語りを摸した文学的ナレーションの在り方、あれはどういう具合につまりどういうペンでどういう紙に書かれていたのだろう。先日ここに引いた英米文学とサイエンスフィクション研究の大家がどこかで学生がライ麦畑を卒論のテーマに選ぶと閉口するああいう語りの垂れ流しは苦手だからといった意味のことを書いていたはずでありそれも大いにわかるのだがいったんこの語りの魔力に取りつかれると魅入られたように抜け出せなくなるのではあって、その意味でこの文体の天才はきっと再評価されねばならぬのである。

 


冬景色  唱歌