俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

芭蕉布

 

わたしたちはよく、外国文学研究そのものに対してネガティヴな反応に接する。それはたとえば、「外国の文化や文物を研究して、一体なんの役に立つのですか。外国人のようには、どうせわかるわけがないでしょう?」と言う問いの形を採る。だが、由良は、ひとつの書評のなかで、そうしたスノビズムを以下のように論破する。

「こういう問いをする人は『分かる』ということを、つきつめて考えていないか、または、そのような疑念が吹っ飛んでしまうほど素晴らしい本──それも外国人による異国の文物研究書によって、魂をゆるがされた経験が一度もないかの、いずれかである」

 

メタファーはなぜ殺される―現代批評講義

メタファーはなぜ殺される―現代批評講義

 

  ここでいう由良はむろん英文学者・由良君美を指し、その由良が書評している当の本とはミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』であるのであって、著者はこの引用中の「外国人による異国の文物研究書」の部分に傍点をほどこし、それを「外国人による、その外国人にとってさらに外国にあたる文学や文化の研究書」と敷衍するのだが、外国人であればこそ他国の文化・文学の中にひそむ普遍に達し、それをみんごと抉り出して見せることもあるのだというこの機微、〇〇人には絶対に書けない〇〇国の文学論というものがほかならぬわれわれによっても書かれうるのだということの途方もない理解のされなさ、その理解のされなさをめぐって学舎としての大学なり職場としての大学なり世間としての大学、いやもっと端的に世間全般なりのムラ社会での身の置き所のない肩身の狭さというものも生じては来るのだが、これが英文学者による英文学者の引用であることに気づくとき驚きはいっそう大きく、英文学者がこの種のうめきをうめかざるを得ないこのすりばち状の世間でましてその他の外国文学語学者はすりばちの底の底で苛酷な消耗戦と後退戦をたたかっているのであっていや自分はとうに現場を離れ現状はわからないのではあるが状況がいくぶんか好転したなどという話は風のたよりにも聞くことはないのであの人この人の顔を思い出してはただただあのときはすまなかった生きていたらまた一度くらいはやあ元気とあいさつを交わしたいなどと感傷に暮れる晴れた冬の午後。

 

 


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