俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

おいしい水

 文学者という言葉があり、それは狭義では文学研究者とは違う意味をもつけれど、文学の論文を書いている人のことを大ざっぱに文学者と呼ぶことはあるし、場合によっては、文学研究者でありながらまぎれもない文学者であるような人も、いないことはないですね。

 ところで、文学者という語ほどの通用力はないだろうけど、語学者という言葉もあるんですね。さる先生がどこかで、文学者ではなく語学者志望だった自分は…という使い方をしていて、ああなるほど、と思ったのがいつのことだったか。

 ぼくは何か国語も読みこなすような学者にはなれなかったけれど、厚かましいのを承知で上の用法をお借りするならば、人より大幅に遅れてロシア語を始めたとき、何をやりたかったか虚心に振り返ると、やはり語学者志望だったとしか言いようがないですね。なにせ田舎の育ちだから、外国語で文学書が読めるようになれるなど、想像もつかなかったせいもあるけれど、八〇年代に、千野先生や田中克彦先生の本を読んで、そっち方面に強くあこがれていたのが、やはり大きいな。

 ひょんなことから英語の小説を読み切れることがわかり、変に自信をつけたことから、進路が変わった、というのは、何度か書いているでしょうか。外国語で小説が読める、これは面白いじゃないか。ロシア語も、勉強を続ければ、小説を読めるくらいにはなるだろう、と。

 そこに重大な軽率さがある、と言われると、実は返す言葉がありません。英米語圏とロシア・ソ連では、そもそも「文学」とか「小説」の持つ意味も同じとは言えないし、ロシア語が上達すればロシア語の文学もおのずとわかる、といった甘いもんではさらさらない。

 とにかく、語学から文学へ、自分なりの回心があった。このことは本当です。本当なんですが、残念なことにあまり説得力を持たないようで、一時期、付き合いのあった多くの人々と結局のところ疎遠になってしまったのは、このことが大きく関係しているのでしょう。

 メモ代わりに。


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