俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

パッシング・ラヴ


シュー・ピンセイ パッシング・ラブ - YouTube

 

 

 バルトが理解した「俳句」は、日本人の考える俳句とは異なっている。俳句がフランス語に訳されることによって変化してしまう点がすくなくないからである。そのひとつが、「わたし」の語であろう。フランス語では動詞にはかならず主語が必要であるから、もとの俳句になかった主語をつけくわえざるをえなくなる。

 たとえば、蕪村の「父母のことのみおもふ秋のくれ」。これをフランス語に訳すと、「夕方、秋/わたしは思う/両親のことを」というような三行詩になる。芭蕉の「九(ここの)たび起ても月の7つ哉」は、「すでに四時だ……/わたしは九回も起きた/月に見とれるために」となる。これらの「わたし」の語はややわずらわしい。しかし意味作用はあまり重くない。「わたし」ではなく「彼」や「あなた」だったとしても、大きな違いはないだろう。私的なことを語っていながら、この「わたし」は、ひとりひとりの読者とかさなりあうような何か、俳句の世界にある共通の何かを帯びている。それは、西欧文学における「わたし」が語り手の自我や主体としっかりと結びついているのとは、まったく異なっている。

 

  俳句かあ。ぼくは短歌のほうが好きで、少しかじっているけど、いいものはほとんどできない。フラワーしげるみたいな天才にはかなわないや。

 土曜だったか、Eテレで全国短歌フォーラムってやってましたね。馬場あき子、佐々木幸綱、永田和宏、といった先生方のほか、MCをやってたのが穂村弘さん?あんな感じの人なのか。

 入選者のかたがたが会場にいて、まわってきたマイクでひとことコメントするんですが、みんな控えめで、感じのいい人たちばかりだった。ぼくみたいにおだってるやつはいないんだな(注:北海道弁には自動詞の「おだつ」があります。理由もなく得意がって、ふざけたりはしゃいだりする、というほどの意味)。