旅の夜風
三角兵舎の人々をわたしは敬愛していた。しかし、わたしがかれらから完全な仲間として取り扱われていた、とは言い得ない。大学を出たという「肩書」、わたしのもつ「哲学青年」的要素は、彼らに何かピッタリしないものを感じさせたのであろう。どうもやむを得ないことだった。例えばこういうことがあった。わたしはT一等兵とM二等兵の間にはさまって寝ていた。日本軍隊における礼儀によれば、わたしは、当然T一等兵のために、朝の毛布たゝみ、夕方の毛布しきをやってやらねばならなかった。わたしはそうしようとした。けれどもT一等兵は「いゝよ、いゝよ、おれがやるから」とことわる。そして、わたしをへだてた所にいるM二等兵と組んで毛布をしまつするのである──「やっぱり気の合った者とでなくちゃ、うまく床とれねえや」などと言いあいながら。T一等兵はあど気なく朗らかな人がらをもっていた。だからもちろんこれらの言葉を、彼はわたしにあてつけて言ったのではなかったろう。しかしだからこそわたしは、こんなよい人にも溝を感じさせずにはおかない自分というものを一そう情なく思わなければならなかった。また、こういうこともあった。或る時、わたしが内地の友人に出したハガキをO上等兵がもって来た。そして言いにくそうにわたしに言った。「班長殿はおまえが日本人だったら、横文字なんかはいったハガキを書くなって言うんだよ。おれはわかってるがね、しなしなにしろ…」
もう小学校の時から「変人」と呼ばれていた「孤独者」の運命は、どうやらわたしを離れることがないようである[…]
ああ、これはたしかに、よってたかって追及を受けると、ぽきりと折れてしまうだろうな…。
戦後、旧ソ連・中央アジアのカラガンダに抑留され、ロシア語通訳を務め、帰国後「アクチーブ」(政治宣伝の担い手)の嫌疑をかけられ、国会で追及を受け、死を選んだ哲学者・菅季治(かん・すえはる)。
それはどなたかが言ったように日本版マッカーシズムの一幕であり、政治と言語のとほうもなく錯綜しきった関係をめぐる事件なのだけれど、菅氏がもともとこういう「孤独者」であったこととも、やっぱりどこかつながっている。そんな風に見えます。
見知らぬ他人ともやすやすとウマを合わせ、発言のニュアンスを微妙にずらしながら、多少の窮地は乗り切ってゆく、というタイプのずるい人なら、こんな目にあうことを巧妙に回避したでしょう。訳語のニュアンス、いや、ぼくロシア語はもともと専門じゃないし、行きがかり上通訳しただけで、知りません、と。
事件の渦中に自ら飛び込んでゆくような過剰な責任感の強さもまた、菅氏の持って生まれた資質と思えます。こういう人が、万事を悪意にとろうと待ちかまえている政治的人間たちによって利用され、死を選んだことを、ただただ痛々しく思います。