Smooth Jazz over 2 Hours
ぼくは綿密に居ずまいを正した末
きみに出会わないために
抵抗やあらゆる神秘の潜んでいそうな大地に
とげとげしいクサビを撒き散らした
その夜 やっとぼくは新しい地底で
とぐろを巻くことを忘れて眠ることができた
ぼくは何度目かのきみの死を償うことが出来なかった
大地の裂け目や きみの窓から慣れなれしく
現れた繊毛などがぴったり寄りそって
海つまりきみの臀部を
記憶することを強要するのだった
きみの死は時効によって償われるものだ
挽歌をうたってきみの墳墓に近寄ろう
(谷口利男『崩壊し生まれはじめる映像』初連)
現代詩などくわしくないのだけれど、この本の随所に引用される学生詩人たちの詩は本当に素晴らしい。日本語は、無名の若い詩人らの手によって、とうの昔にこういう文学的水準に達しているかと、あっけにとられながら読みましたですね。
才能=詩神って「来る/来ない」の問題だから、努力してどうなるものでもないんでしょう。しかし、荒削りの才能たちがぶつかり合い、触発しあうことによって伸びてゆくということは確かにある。だから、サークルとか同人誌のたぐいの、場としてのちからは決して馬鹿にできないものがあります。そして、分かってくれる人を得るということも、才能が伸びていくうえでとりわけ必要。この詩人に対しても、先達の詩人が
谷口氏の詩が、非常にすぐれているとはいえない。ただここには自らのアドレセンスによってのがれようもなくとらえられている魂があって、しかも谷口氏自らそれを自覚しようとしてたたかっている。その姿は、やはり感動的である。自覚して、などと私がいうのは、詩が、そして言語というものが、谷口氏にとってその自覚のたたかいの不可避的な場であると信じられているかどうか。つまりこの先、谷口氏が詩をいくたびもえらびなおしてゆくかどうか、それはまだわからない。そういう作品だからである。谷口氏がえらびきるもの、それが美意識となるか、そうでないか。私は谷口氏にこの問いかけをおくろうとおもう。
といった真摯で温かい評を寄せている由。
文学に志があれば、日本語さえできればよい、と一度若い人のまえで言い放ってみたかった。それは外国語屋という自分のvocationと矛盾するのだけれど、外国語の前に、若い人に、こういう日本語をこそ読んでもらいたい、と思うことも多かったですね。
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NHK-FMの「今日は一日○○三昧」を三日連続で聴いて、お金を使わない、いい連休になりました。アイスコーヒーまたはゼロカロリーのコーラを用意し、布団をたたんでテーブルを出してパソコン据えて、仮設の作業机にし、軽作業しながら。今日はラジオドラマ三昧。谷川俊太郎の書いた「十円玉」、60年代初めの小池朝雄がいい。原田芳雄の渋い京都弁の「優しさごっこ」、つかこうへいの「ポックリ・ソング」、面白いなあ。
まだ窓を開けていられるくらいの陽気の、素晴らしい秋晴れ。
Smooth Jazz Over 2 hours Jan 2013 - YouTube