俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ある外国語(たとえばドイツ語)のものを他の外国語(例えば英語)の訳文で読んだ方は経験されたことと思いますが、外国人の翻訳は、ある意味では、必らずしも正確ではありません。とくにドイツ語の社会科学書の英訳はひどいんで、うっかり英訳を使うとえらいことになる。その点、邦訳ははるかに忠実です。忠実なんだが、そこにまた問題があって、忠実な翻訳が日本語になっているかというと、この点ははなはだあやしい。極端ないい方をすると、英訳のほうは、内容的に不正確というか一定の偏向があるが、ともかく英語になっている。──ということをいうほど英語に強くないので生意気なことはいえませんが、少なくとも、そう思われる。──つまり、多少イギリス的になっており、そこで内容的にあやしい点が出てきてうっかり英訳は使えないということになるんですけれど、とにかくイギリス人の社会科学になっている。ところが邦訳はそうではない。日本語として間違いというよりも、日本語とすれ違ったところで、社会科学的な正確さだけがねらわれている。

 

 

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

 

  社会科学ではないですが、チェーホフ『かもめ』を小田島雄志さんの訳で読んでいて気づきましたですね。小田島訳はチェーホフに対する愛にあふれたいい訳なんですが、いかんせん英語からの重訳。一か所、どうも腑に落ちない点があり、他の訳と比べて、そもそも英訳のほうに潤色(省略?)があると判断せざるを得ませんでした。

 今日は二時から起きてました。こうなると早朝なんだか深夜なんだかわかりませんな。ただ、『徹夜の塊』などというおそろしいタイトルの本を書く大先生がおられて、羸弱な自分はとても連日の徹夜など無理、とあきらめていましたが、一回早く寝て、すっきり起きる、というのならできる。去年の冬の入り口から今年、ずいぶんそれを励行しました。こうやって、みんながとっくに歩いた道を、後からとぼとぼ歩いていくのも、なかなかいいもんだ。

 ドイツのものを英訳で読む、うん。若い時勉強し損ねた自分にとって、ドイツ語は手が出ないから、そのため何とか読める英訳で「我慢」する、ぼくにとってはそういうことだな。むかし、高いおもちゃを買ってもらえない我が家で、代用品みたいなバッタものを親が買ってくることがあったような。そのときのさみしいようなうれしさ。Kindleでゼロ円とか一〇〇円のマルクスの英訳なんか集めるのは、なんかそんな感じだと思うな。

 


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