俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

アスファルト・レディ

What precisely is my object in writing? If it is not for the public, then after all, why should I not recall these incidents in my own mind without putting them down on paper?... perhaps I will really get relief from writing. Today, for instance, I am particularly oppressed by a certain memory from the distant past.. I have hundreds of such memories, but at times some single one stands out from the hundreds and oppresses me. For some reason I believe that if I write it down I will get rid of it. Why not try?

 

 

 

The Boundaries of Genre: Dostoevsky's

The Boundaries of Genre: Dostoevsky's "Diary of a Writer" and the Traditions of Literary Utopia

 
The Boundaries of Genre: Dostoevsky's Diary of a Writer and the Traditions of Literary Utopia (University of Texas Press Slavic Series ; No. 4)

The Boundaries of Genre: Dostoevsky's Diary of a Writer and the Traditions of Literary Utopia (University of Texas Press Slavic Series ; No. 4)

 

  20年前から難しくて読めずにいる本をリュックに入れて外出。コーヒー屋で読んだけれど、やっぱり難しい本。ただ20年前と違って、字面はとれる。帰り、雨に降られて、傘借りちゃったですよ。

 日記・手記にとって読者とは何か、というのは、あんがい難しい問題(このブログだって、誰に向けて書いているのでしょう?)。

 かつて筒井康隆師匠が、日記とは死後に公開されることを前提に私憤を書きつらねること、などと書いていたことがありました。ただ、こないだ何かで読んだけれど、きちんと日記をつける人は、毎日毎日それがはけ口になって、ストレスが溜まらないのだとか。

 上に引いたのはドストエフスキー地下室の手記』の一部、となっていますが、そんな箇所あっただろうか? と考えつつ、モーソンの試訳による英語のまま引いておきます。あえて屋上屋を架すのを恐れず重訳すれば…

わたしがものを書くのはぜんたい何のためか? 公表するのが目的でないなら 、そういう出来事は心の中で思い返すだけでいいので、わざわざ紙に書き留めておくこともないのではないか?…たぶんわたしは書くことで心底安堵するんだろう。たとえば今日は、遠い昔のある思い出のせいで、ひどくふさぎ込んでいる…そういう思い出は何百とあるのだが、何かの拍子にその何百の中から何か一つだけくっきりと際立って、気をふさいでしまうのだ。思うところあって、そういうものも書きとめれば、それを免れることができるんじゃないかと固く信じている。試す値打ちはあるじゃないか?

 なぜ「小説」が、誰かの手記・日記を別の誰かの編集によって世に出すという体裁をとってこの世に生まれ落ちたのか、そのことを考察するためのカギも、この本には少し書いてあります。でもこの箇所、ドストエフスキーのどこだ? 

 


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