俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

危険な関係のブルース

 

「彼らは地位をもとめてこの大学へやってくるだけよ」

彼女は吐きだすようにいった。その調子のはげしさに私はたじろいだ。政治家、官僚、ジャーナリスト、テレビ・マン……そういったものにごく自然になれる道として、学生はここへくるだけで、真実だとか現実だとかに関心があるわけではない。そのような学生に対してちょうど見合うものとして、アカデミックな学問スタイルがある。

 自分は現代中国に関心をもったから東洋学をやろうとした。しかし東洋学部で教えられていることは、漢代の古典を古いスタイルで読んでいくというようなことだけで、もっと現代をといったら、そんなものはアカデミックな学問の対象にならないといわれた。この大学にある学問にとってはつまり真実や現実はどうでもよい、大切なのはそれがアカデミックな方法の対象となるかどうかだけなのだ。それはこの大学の学者たちののぞんでいるのが、アカデミズムの内部での昇進以外の何ものでもないこと、この大学にくる学生たちののぞんでいるのが、社会的地位以外の何ものでもないことと、みごとに対応している。……

 

  理系と文系をまたにかける技術論学者の英国サバティカル日記。

 いつかこの本を、夢中になって読んでいたことがありました。少人数の精鋭学者・司書からなるケンブリッジ大学内の小さな研究所/図書館の研究環境の素晴らしさに、無限にあこがれを募らせていた、というと、いかにも身の程知らずで恥ずかしいですね。そして、そこに、激越なアカデミズム批判とともに研究所を去る有能なスタッフのことが書かれていたのも、忘れずに憶えています。

 研究者ならだれしも、研究対象にあわせて方法を模索する。と同時に、習い覚えた研究方法に合致する対象を探し求めるということを、意識的にか無意識的にか、やっているはず。やっていないはずがない。だから、厳密にいうなら、上に引いた激越なアカデミズム批判を免れることのできる研究者など、まずいない。

 先日、つかの間の研究滞在のとき、やはりこの一節が脳裏をよぎりました。だからどうした、というわけじゃないんですが、自分は方法に合わせて現実を裁ち落す愚をやはり犯していないか、と逡巡しつつ、小さな研究会で報告をやり、帰ってきました。

**************

 でもやっぱ、コピーは紙でなく、USBメモリーにデータを落とす方式でやってくればよかったかも。紙で持ち帰ったものを製本すると、結構なお金が飛んでいきます。明日引き取りに行く予定。

 午後から、いい感じで夏の雨が降っていましたが、あがったかな?


Ken Okamoto & Funky Jazz All Stars "No Problem ...