I'm so lonesome I could cry
それから僕は二十九になって、とつぜん小説を書こうと思った。僕は説明する。ある春の昼下がりに神宮球場にヤクルト=広島戦を見に行ったこと。外野席に寝ころんでビールを飲んでいて、ヒルトンが二塁打を打った時に、突然「そうだ、小説を書こう」と思ったこと。そのようにして僕が小説を書くようになったことを。
僕がそう言うと、学生たちはみな唖然とした顔をする。「つまり……その野球の試合に何かとくべつな要素があったのでしょうか?」
「そうじゃなくて、それはきっかけに過ぎなかったんだね。太陽の光とか、ビールの味とか、二塁打の飛び方とか、いろんな要素がうまくぴたりとあって、それが僕の中の何かを刺激したんだろうね。要するに……」と僕は言う。「僕に必要だったのは自分という物を確立するための時間であり、経験であったんだ。それは何もとくべつな経験である必要はないんだ。それはごく普通の経験でかまわないんだ。でもそれは自分のからだにしっかりとしみこんでいく経験でなくてはならないんだ。学生だったころ、僕は何かを書きたかったけれど、何を書けばいいのかわからなかった。何を書けばいいのかを発見するために、僕には七年という歳月とハードワークが必要だったんだよ、たぶん」
「もしその四月の午後に球場に行かなかったら、ムラカミさんは今小説家になっていたでしょうか?」
「Who knows?」
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東北の某県庁所在地。恩師の最終講義。この話題もそろそろ切り上げ時ですが、もう二、三メモ代わりに。
いろいろ宿題をもらった旅行ではありました。恩師が最終講義のハンドアウトの冒頭に引いていたのは荒川洋治さんの「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように実学なのである」という有名な啖呵と、ヴァージニア・ウルフの"A Room of One's Own"からの引用。どちらも、文学はむなしい言葉の遊びではなく、生の実質をともなった真剣な営みであることを説くもの。
でもって、今朝、4時にタブレット端末のアラームにたたき起こされ、眠い目をこすって部屋に入り、ちょっと読んでみたのですよ、ウルフの原書。読めっこないと思って買ったままにしてあったのがちょうど出て来ました。で、読み終わらないと(それから邦訳も念のため読まないと)何とも言えないんですが、僕が真っ先に思い出したのは村上春樹さんの上の一節。
これ、たしかに村上氏が自分の経験を語ったものに相違ないんでしょうけど、同時に、ひょっとしてウルフの著書なんか無意識のうちに念頭に置いていやしないのか。日常的な経験の蓄積が創作への衝動に転化するというこの論の持っていきかた、どこか似てるように感じてしまいます。うん、ウルフ、読み終わってないから何とも言えませんが。
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あの町に住んでいたあのころ、あまりの金欠にCDを全部処分したんですが、その中古CD店がいまもあるのかどうか、確かめ損ねました。近くまでは行ったので、見て来ればよかったんですが、デパ地下でノンアルコール飲料とおつまみを買って、歩いてホテルに帰りました。もう行くことないかもな。そうだ、あの店はLPも置いていて、B・J・トーマスを買ったんだ。実に二十数年の引っ越し人生を生き延び、わが部屋で鳴っています。
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