俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

センチメンタル・カーニバル

 冬至が過ぎました。

 日中の長さというのは日の出から日の入りまで。朝がいつ明けるかが関係してくるので、冬至に日没が一番早いというわけではありません。日の入りが一番早い時期はすでに過ぎていて、それだけでもほっとするのですね。

 冬至といえばかぼちゃですが、かぼちゃは今月早くに何回か食べたので、昨日はカレーライスにバナナのおやつという平凡な一日。そうそう、二か月ぶりに髪を切りましたっけ。

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 貝澤哉教授の『引き裂かれた祝祭』を今年初めて手に取り、巻頭論文に激しい衝撃を受けました。二十世紀を代表するロシアの言語思想家ミハイル・バフチンのなかにみられる〈対話〉と〈カーニヴァル〉という二つの概念はとてもよく知られていますが、その二つが実は相容れないものだ、という内容。

 〈対話〉というと、われわれは何となく〈対話〉する者どうしが互いの知らない側面に気づいて可能性を無限に膨らませてゆくプロセスのように思いますが、バフチンの〈対話〉ってそうじゃないのですね。むしろ対話する者どうしが相互の可能性を限定しあい、最終的には〈死〉へと向かってゆくのが〈対話〉だ、という指摘には思わずうなりました。

 では、個々の人間が持っていたそれ以外の可能性はどうなっていくのか。それらの可能性は未完了のまま(実現しないまま)、未来=死の向こう側へと遺棄される。ところが人間がそういう現実には展開されていかない可能性を持っていることを、バフチンは、フロイトの〈無意識〉の概念を徹底的に批判するとき、いったん否定してしまうのですね。しかし、それだけ激しくフロイトを否定しているところが怪しいので、バフチンは表面的にはフロイト的〈無意識〉を否定しながら、じつはまさに〈無意識〉においてそれを大いに肯定しているのだ、というところがみそ。こうしてバフチンは一回否定したはずの、未完了のまま未来=死のかなたに遺棄された可能性を〈カーニヴァル〉という術語のもと回帰させる…

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 じゃあ、あおい輝彦「センチメンタル・カーニバル」ってどういう意味なのか。やっぱり、束縛し合い、傷つけあった恋人どうしの、悲しい破局の向こう側へと遺棄され、実現しなかった可能性の回帰を歌ったものなのか。

 …なんてこともないでしょうね。あるときラジオでかかっていて思い出した、いつか流行った、いい歌。


センチメンタル・カーニバル/あおい輝彦.cover by taka - YouTube

 

引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化

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