俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

バフチンのラブレー論が文庫に入らないか

 結論からいおう。翻訳文学に興味を失った文化とその言語は、はてしない同語反復におちいり、頽廃し、衰弱する。停滞し、腐敗する。唾棄すべき外国嫌いと偏狭きわまりない自国自文化崇拝がはびこり、閉ざされた黄昏のよどんだ空気の中で、陰湿な相互攻撃ばかりがつづく。あるいは、わずかにでも異質であると感じられる人々への、容赦ない冷酷な排除が牙をむく。これだけ明確に戦うべき相手がいくらでもいる以上、はっきりいわなくてはならない。ぼくらは翻訳文学を読むべきだ。つねに読むべきだ、いくらでも読むべきだ。

 これ、どなたの何という本からの引用か、あえて言わないでおきますけれど、このところ、ここにある「陰湿な相互攻撃」という一節をよく思い出す日々が続いたので、引いておきますね。「陰湿な相互攻撃」が狭量な自画自賛と裏表の関係にあることがすごくよくわかる一節です。

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 翻訳文学がいずれ消滅するかもしれない、そんな風説を目にしました。翻訳本が一冊出ても、版元は原著者への印税、エージェントへの手数料を払うのが精いっぱいで、重版にならない限り翻訳者には支払いが発生しないらしい。そして翻訳書が重版になることはめったにないので、つまり翻訳者はほとんどの場合、無報酬。これでは誰も翻訳家になろうとは思わなくなる…

 ただ、一方で、これはあくまでワタクシ自身に限ってのことですが、ぼくらは翻訳文学を読む「べきだ」、ゆえに無理して読んできた、という面も無きにしもあらず。翻訳って、かなり読みづらいものも多いんですね。純粋に日本語を読む楽しみとして翻訳文学を読むのは、なんというか、コツが要るというか、難しい…一般の人が食わず嫌いになる経緯、これもよくわかる気がします。

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 いつかの冬、厳冬期を過ぎたあたり、ミハイル・バフチンのフランソワ・ラブレー論を熱に浮かされたように読んだことがありました。よく言われるように、一見バフチンって書きぶりが散漫で、ひどく読みづらく感じます。でもあの本に関しては、いったん入り込んじゃうと一気呵成でした(その本が、どこかに紛れ込んじゃって今出てこないんですが、片付けものをしながら探しましょう)。あれを出した版元がやはり、著者にはギャラをいっさい払わなかった、という話をあるところで読みました。その小出版社にとってこうした本を出すことは、ビジネスではなく一種の文化運動だから…若手学者にノーギャラで書かせる/翻訳させるこうした冒険的な企画の出版があればこそ、こんにちぼくらは普通にバフチンを知っているわけで、最初にバフチンの確乎たる権威がこの日本語の世界にあったわけではないのですね。だからその出版社の方針も、一概に非難できない…

 一だから、バフチンが二十世紀を代表する思想家として認知されている今日、こんなベーシックで、こんなに面白い本が、いまだ文庫になっていない、というのは本当に残念なんですね(ハードカバーの新訳はいつぞや出たみたいですが、残念なことにぼくは未見です)。つい最近読んだ貝澤哉教授の『引き裂かれた祝祭』では、バフチンがこの書でとなえた「カーニヴァル」とは、バフチン自身が必死に否定したはずのフロイトの「無意識」の等価物だ、という、あっと驚く指摘がなされています。ところが、先日訪ねた札幌の大学図書館では、貝澤教授のこの本は開架にあったのに、肝心のバフチンのもとの本がなかったような気が…

 誰もがハードカバーの新刊を買えるわけではない、ゆえに翻訳モノは売れない、という指摘も目にしました。ならば、こういうスタンダードなものがどんどん文庫に入らないものでしょうか。桑野隆教授もまず一冊バフチンを読むとしたらラブレー論から、浩瀚だが他より格段に読みやすい、と述べておられます。同じバフチンの『ドストエフスキー詩学』と同じようにこれがフツーに本屋で手に入る日を夢見て冬の始めの夜が更けてゆきます。

 

 

 

バフチン (平凡社新書)

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引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化

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フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化

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