俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

アムールのさざなみ

 研究室の夢を見ました。

 研究室って、大学の教師にあてがわれている個室で、英語では単にofficeと呼ぶらしいのですが、とにかく夢の中で相変わらずぼくはそこに自由に出入りしていました。それどころか、生協の売店の地下の売り場のカウンターのわきにまでデスクを持っていて、そこにミニコンポを据え付けて何か聴いたりもしているのでした。ぼくは学内をさながら〈ノマド〉のように遊泳し…でも何か変だ、そんなはずはない…と思ったら目が覚めました。

 あそこは4年前に引き払ったのですね。それに、学内にあんな地下の売店なんてなかったし。相変わらずの不思議な夢。

 ただ、ああ、なるほど、と納得しました。何に? 昨今話題の、ふつうの大学のL型大学化(職業訓練校化=アカデミックな科目を廃止し、実践的な簿記、英会話、道交法などを教える)の案が出てきたのが、どういう国民的センチメントを背景にしているか、という点について。

 亡くなられた山口昌男さんがどこかで、もともと日本史専攻だったが、西洋古典学などの勉強の方が面白く、その根っこには人類学が関わっているので、人類学を教えながら本を読もうと思った、と書いておられませんでしたか。要確認ですが、大学の教師をしながら読書を続けよう、という趣旨がにじみ出た一節。何の本だったか…

 これは決して山口さん自身のことを言うわけではありません。そういう〈学者〉のありかた、公的資金で建てられた大学の構内に個室を与えられ、そこで研究と称して洋書を読みふけっているらしい文系の大学教師、という生き方への社会的不信。アカデミックな科目を廃し、社会から実務者を教員として招く、というL型大学のコンセプトの根底には、やはりそれがあると強く感じます。

 もちろん、今だってどこの大学でも、教師は大量の業務に追われ、優雅に研究生活を謳歌している者なぞ一人もいるはずがありません。みなようやくのことで時間をやりくりし、睡眠時間を削りやっとの思いで論文を書き、あるいはそれすらもかなわず…しかしそういう実態/当事者の実感とは別に、彼ら(というかかつてのぼく)は、社会的義務を大幅に免除されて悠々と権利を行使しているようにしか、はた目には見えないらしい…とくに地方では、多くの人は大学教授の肩書をもつTVタレントさんのことを「学者」だと思っているので、あんなのワイドショーや大講義室で床屋政談をしているだけの気楽な商売で、おれにだって勤まる、と言わんばかりの接し方をされることも多かったんですね。

 大学改革案自体は労働力人口の減少への強い危機感から出発し、あくまで社会的な資源配分をどうするかという議論。生産性の低い職種へ人材を回す余裕はなくなってゆくので、大半の大学の人文社会系科目を、社会的ニーズの高い実学に振り替えていこうという…ただ、従来の教授には辞めてもらう(か再訓練を受けてもらう)、というどやしつけ方はやはりいささか恫喝的で、世論はとうにこっちの味方だ、という高飛車な自信が透けて見えます。あるいは、ブンケイの教師たちが社会全体のことを考えて真面目に仕事をしているはずがない、という予断…

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 初めて赴任した大学で、研究室のがらんとした本棚が、あちこちで(私費をはたいて)買ってくる和洋の専門書でだんだん埋まってゆく、あのころが一番楽しかったかも。興味ない子たちに外国語を教える仕事ってこんなに難しいのか…と、そんな素朴な悩みに当惑していたころ。秋の日、授業を終えて、「アムールのさざなみ」を聴いていたおそい午後のことをはっきり覚えています。


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