俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

サルトルで眠れない


YouTube: サルトルで眠れない - 野崎沙穂 ('85)

 

 また書庫から自宅のほうへ少し本をもってきました。

 カール・ポランニー『経済と文明』(栗本慎一郎、端信行訳、ちくま学芸文庫、2004年)

 シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ「ノート」抄』(田辺保訳、講談社文庫、1974年)

 ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』(阿部齊訳、ちくま学芸文庫、2005年)

 『カフカ傑作短篇集』(長谷川四郎訳、福武文庫、1988年)

 ルソー『孤独な散歩者の夢想』(長谷川克彦訳、角川文庫、1958年)

 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年)

 自宅のコンピューター机のまわりは本の山になってしまって、これではわざわざ別に書庫を設けている意味がありません…。

 懐かしいのは、ヴェイユ重力と恩寵』ですね。大学院生の時、寮の談話室の本棚にあったもの。この有名なユダヤ人女性思想家のことを、大学院の博士課程になるまで知りませんでした。あのころ僕は語学を教えるバイトが決まったばかり。日本海側の町の自治体が主催する語学講座でしたけど、片道2時間以上バスにゆられながら、車内でヴェイユを読みふけったのを、昨日のことのように思い出します。

 日帰りができない旅程で、ビジネスホテル一泊付きという大変条件のいいバイトでした。僕はそれまで学生として学んできた外国語を、その時初めて「教える」という立場に立ちました。当然、うまくいくはずはなく、教えるよりは学ぶことの多かった一年間。大変でしたが、受講者のかたによくしてもらって、楽しかったですね。

 ただ、車中が長いのと一泊するということもあって、なにか本か勉強道具を持っていくのに毎週困りましたね。翌日は札幌にとんぼ返りし、博士課程の演習がありました。だから、その予習も宿でしなくてはならなかったんですが、それをさぼって哲学書の類を読みふけっていた覚えしかありません。確か夏のあるとき、一泊し、早朝ホテルを抜け出し、きれいな広場のようなところでキルケゴール死に至る病』を読み終えたのも覚えています。実存主義って、中学のころの先輩が、この『死に至る病』を例にわかりやすく教えてくれて、「な~んだそういうことか」とすっかりわかった気がしたのですが、それは子供の錯覚というもの。大学院の博士課程になって初めてキルケゴールの実物(翻訳ね、もちろん)を読み、難解きわまりないけれど、ずっしりとした読後感が残りました。

 ただ、やけに待遇やギャラのいいアルバイトだなあ…と思っていたら、通い始めてしばらくして事情がのみこめました。その町の近くに原子力発電所が建てられた見返りに資金が交付され、それをもとに行われたさまざまな事業の一環なのだとか。そのときは「ああそうなのか…」ていどに思っていましたが、今考えますと、そんな仕事を引き受けたことは、RCサクセション『カバーズ』を熱心に聴いた音楽リスナーとしての履歴とは大きく矛盾します。事前にわかっていればお断りすべき話だったかもしれませんが、同級生が他大学の非常勤講師をまかされたりするのと比べ、そういう話がな~んにもなかった僕。そこへ恩師がせっかく持ってきたお話だったので、やはり断れなかっただろうと思います。

 大学院生なんて、今どこの大学にも掃いて捨てるほどいるし、その全員が昔のように「学者の卵」としての暮らしをしているとも思えません。でも、80年代末~90年代初めにはそういう「大学院生神話」がまだ世間では信じられていたような気がします。僕自身、「サルトルで眠れない」に歌われているような、執筆に疲れて論文を閉じ、眼鏡をはずして恋人と長い口づけをする…といった生活に、どこかであこがれていたのだと思います。

 野崎沙穂さんのLPを聴いたのは、そんな大学院生になる前。リサイクルショップで売られているのを見つけて買い、ずいぶん聴き込みました。普通の会社を辞めて塾のバイトをしながら、もう一度大学に行きたいなあ、今度は経済じゃなく文学・思想がやりたいなあとのんきな憧れを募らせていました。(全くお恥ずかしい話ですが)この曲が、その後の僕の進路をどこかで決定していたという側面は、確かにあるような気がします。