俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

愛が生まれた日

2010年の暮れの芸能ニュースは、ダンディなジャーナリストをめぐる2人の女性タレントの確執というニュースで持ちきり、とメモ代わりに記しておきます。ニュースの中では、「いつからそういう仲になったのか」と芸能リポーターさんたちが食い下がって質問していましたけれど、主観の相違といいますか、一方は200x年ごろといい、一方は200△年ごろ、と認識にずれがあるのが印象的でした。身もふたもない意味での「関係の有無」はたしかに「いついつから」と確定できないことはないんでしょうけど、子供じゃないんだから、放課後の校庭に呼び出して「コクる」とか、そういう境い目がどこかにあるわけじゃ、ないですよね。

その意味で、保守の論客として知られる某評論家が自伝的著書でこう書いておられるのは、まことにもっともです。

「…俺はお前が好きなんだとか、私はあなたに惚れているとかいうような科白がなぜ可能なのか、今もって私は理解できないでいる。好かれたり惚れられたりするがわは、そのように言われるだけでも、迷惑であり不快であるのかもしれない。そう考えると、相思相愛のシグナルがしっかりと交換されたという前提がなければ、そんな意志表示をやってはいけないのではないか」

ああ、これ、知ってる人は物心つくかつかないかの頃から、本能的に知ってるんでしょうね。

机の上の藤谷美和子のアルバム『SINGER』(1994年)。これは、藤谷さんが遠くを眺めるように微笑んでいるジャケ写が欲しくて買ったようなもんですが、やはり8曲目「愛が生まれた日」(大内義昭さんとのデュエット)の素晴しさは特筆もの。今日でも色あせない輝きに満ちています。恋人よ、今、受け止めて、あふれる想い、あなたの両手で。たしかに、一定の確信が持てないうちはこんなことは言えません。

この曲を聴きながら「僕たちとおんなじだね」と思った若い/若くない恋人たちはさぞたくさんいたことだろうなあ。あなたとならば生きていける、と打ち明ければ、君がいるならそれだけでいいとこだまのように手ごたえが返ってくる、これを人は相思相愛と呼ぶわけですが、もうキャピキャピの若さではない(30歳をチョイ過ぎたばかりの)藤谷美和子さんが歌うところにこの曲の説得力はありました。「あなたとならば」という条件節にこめられた、どれほどの諦念、どれほどの遍歴。年に数回ですけれど、今もこうしてCDプレイヤーにセットして聴いています。ジャケ写のなかの藤谷さん、微笑む目もとに遠い懐かしさがあふれ、今見るといっそうきれいです。