俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ストラヴィンスキーも聴かなければならない

12,3年ほど前、クラシックや現代音楽を一通り聴いて理解したいと強く思ったことがありました。

今となっては夢の残骸のようなものですが、そのとき買ったCDガイドのたぐいが今でも手許にあります。そのうちの一冊。

『クラシックの聴き方が変わる本 テーマ別・名盤&裏名盤ガイド』(洋泉社[洋泉社MOOK]、1997年)

面白く読ませようという執筆者たちの努力がうかがえる本です。少しやりすぎてプロレスか競馬の評論のようになっている部分もありますが、役に立つこともいろいろ書いてあります。そのうち、片山杜秀さんというかたがストラヴィンスキーについて書いておられるこの部分。

ストラヴィンスキーの作品はどれもアレンジみたいなものだ。<ペトルーシカ>も<春の祭典>も、出てくる旋律のかなりは、ロシアの民謡・俗謡の類いからのパクリである。そもそもこの作曲家には、オリジナルも引用もアレンジもヘチマもなかった。大体、オリジナルかそうでないかを区別しようとする発想が、個人の名において発表される芸術作品は、発表者のオリジナルで満たされるべきとする、西欧近代の『一にも二にも著作権』的思考の産物だ。そして、ストラヴィンスキーは、そのような近代的発想を超越し、人の物も自分の物も区別しなかったからこそ、偉いのだ」(113頁)

こう引用しますと、何度も書いている近田春夫さんが70年代におこなっていたパクリの積極的擁護と恐ろしいまでにかぶりますね。

伊福部昭も、北海道に渡ってきた人々が歌う日本各地の民謡に強い影響を受けたといいます。70年代にアンダーグラウンドで人気のあった某バンドの曲は、ほとんどがローリング・ストーンズやブルーズをパクったメロディに適当な詞を乗せたもの、と指摘されていました(だからこそあのバンドは偉かった、という文脈です)。

何回か前のエントリーで俗楽と非俗楽といったことを書きました。僕らは、クラシック対それ以外というふうに音楽を聴いてきませんでした。クラシックより一段劣ったものを聴いている、という劣等感を一切持たずに好きな音楽を聴いてきました。ただ、ときどき気になるのです。俗楽(ポピュラー音楽)と非俗楽の縫い目、境い目のあたりに、すごく豊穣な沃野が広がっているのではないか。『春の祭典』を支えているポピュラーカルチャーって、誰の本を読めば書いてあるのでしょうか。

今日も静かな冬の日でした。