俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

伊福部昭が呼んでいる

先日、ゴミを処理した際、むかし録り溜めしたVHSのヴィデオを大量に捨てました。が、そのあと、失敗したな、まだ使うものがたくさんあったな、と後悔しています。

なかには、作曲家、伊福部昭(いふくべ あきら)の生涯をドラマ化したのがあったはず。主演はたしかジャニーズのロック隊、男闘呼組の元メンバーでした。

伊福部は釧路生まれで、北海道帝国大学農学部を出て、終戦までは林務官などをしていたというから、音楽に関しては独学の人。ドラマでは、田舎で独力で作曲を学び、国際的な音楽賞の一等を勝ち取る様子がよく描かれていた記憶があります。

昨日のエントリーでふれた『現代音楽 CD×100』(PARCO出版、1995年)で、片山素秀さんという方がシンパシーあふれる解説をお書きになっています。

伊福部昭は孤軍奮闘の人である。

戦前、まだ日本作曲界がまだヨーロッパの伝統の吸収とやらに明け暮れていた頃、彼は、アジアの素直な感性を、西洋楽器によって表現するための、独自な音使いを早々と見つけてしまい、先走った奴と迫害された。

戦後は逆に、今度は欧米の新潮流にリンクしようとする作曲界の流れに抗したため、遅れている奴とまた迫害されてしまった。

 そんな伊福部がゴジラと出会うのは、歴史的必然だった」

たしかゴジラって、水爆実験の放射能を浴びて巨大化したモンスターという設定だったですか。その映画の音楽を担当した伊福部も、いろいろサイトを検索すると、戦時中、戦時科学の研究に駆り出され、航空機用の木材に放射線を照射して強度を高める実験に従事、放射線障害を負った、とあります。

冒頭に書いたとおり、伊福部は北大の農学部を出た後、林務官として働いていましたが、北海道でとくに伊福部の業績が顕彰されている、といったことは寡聞にしてきいたことがありません。先日、北大に所属する若い知人に「今の北大に伊福部の音楽の研究者はいるかどうか」と問い合わせてみましたが、よくわからない、との返事でした。

1935年(昭和10年)に北海道の厚岸町から突如東京のチェレプニン賞の事務局に送られてきた「日本狂詩曲」は、東京の音楽家たちにはまったく理解不能で、だけど規定を満たしている以上は応募を取り下げてもらうわけにもいかず、しかたなくパリの本部に送ったところ一等を獲得してしまう、というこの一事をとっても、日本文化の中心と周縁をめぐる重大なエピソードだと思うんですが。それをいうなら、山口昌男先生が伊福部について語っている文章というのはあるんでしょうか。

伊福部が呼んでいます。粗野、泥臭い、都会的洗練に程遠い、といった悪評をはなから気にしていないかのような果敢さが、僕たちを呼んでいます。