俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

友達よ泣くんじゃない

阿久悠さんのトリビュート企画第二弾が出てるんですか。『歌鬼2』。iTunesStoreでいろいろ健作、もとい検索してて見つけました。しかも今回は阿久悠VSフォーク、という企画。あがた森魚さんが「津軽海峡冬景色」を歌ったり、となかなかやりますね。

僕は例によってこういうときこその、こだわりの「一曲買い」をしてみました。森田検索、もとい健作さんの「友達よ泣くんじゃない」を、太田裕美さんがカヴァー。

話は急に変わるようですが、スコット・フィッツジェラルドって小説家がいましたよね。代表作は『偉大なギャツビー』。かつて映画化にあたっては『華麗なるギャツビー』という邦題が用意されましたし、現在本屋さんでお目にかかる村上春樹訳は『グレート・ギャツビー』となっていると思います。

僕の記憶に間違いなければ、そのどこかに「人間の同情心には限界があり…」という一節があったはず。ペーパーバックを読んでて"Human sympathy has its limits"とかいうくだりに出会ったときは、ほんと、ドキッとしましたね。いくら親友でも、他人の不幸に無限に同情することはできないって言う…だとしたら、生きるって、どんだけ残酷なものなのか。

それでも、人生のさまざまな局面で、意気投合し、肝胆相照らすあいだがらになる「ともだち」ができることはあるわけでして。でもって、僕は田舎者だから、いい時だけ表面的につき合うんじゃ「ともだち甲斐」がないような気がするのです。もちろん、何歳になっても「~くん」「~ちゃん」と呼び合いながらベタベタとつきあうのがいい、と言ってるんじゃないですよ。「ともだち」が、「朋輩」が、あるいは「同志」が、運命のめぐり合わせの理不尽さと残酷さに打ちひしがれ、泣きじゃくっているとき、「泣くんじゃない」と励ますことのできる、そんな男の子でありたいのです。「ともだちよ 行くんじゃない みんな君の味方」。言えそうで言えないですよこれ。

今、泣いている「ともだち」がいたら、家族も恋人もなく、一人で悲痛な運命と戦っている「ともだち」がいたら、言葉の上でいいんです、呼びかけてあげてください。「友達よ、泣くんじゃない」と。