俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

小泉今日子「厚木」

今日は長い映画を観ました。アンジェイ・ワイダ『大理石の男』(1976年)。NHKのBS2で録ったままずっと観てなかったものです。1950年代のポーランドの労働英雄の運命の変転を描き出した映画。で、気づいたのは、これもメディアによって作られた偶像の話なんですね。

映画学校の女子学生が、労働英雄のその後という禁じられたテーマを卒業制作に取り上げようと思い立ち、クルーを連れて関係者を訪ねて回る、という設定。まずは、煉瓦工のビルクートがニュース映画によって労働英雄に仕立て上げられていく過程が老映画監督の口から語られますが、そのプロセスは、メディアによってアイドルのイメージが作り上げられていく実情そのものです。記録破りの3万個のレンガ積みを記録した映画は、ヤラセに満ち満ちています。街から床屋をかき集めて主人公たちのひげを剃らせ、絵にならない場面には再演を要求し…映画監督はそのフィルムによって映画界に地歩を築きます。

さて、労働英雄となったビルクート青年。この映画の真の論点は、ビルクートが、メディアの情報操作によって自分に与えられた労働英雄の役割を愚直に引きうける、という点にあります。彼は自分に与えられた要職を過剰なまでに真面目に遂行しようとして、却ってわが身に不幸を招いてしまいます。地方に「実演」に出かけて、焼けたレンガを素手でつかんだあげくの大やけど。スパイの嫌疑をかけられて逮捕された仲間を救い出そうとしての奔走。そして逮捕。スターリン死去の後と思われる時期になって釈放されて出てきますが、自分が救うはずだった仲間はとっくに娑婆に出て名誉を回復されています。そして、愛する妻は、当局の圧力で、夫の有罪を証言させられた罪悪感を苦に、行方をくらましています。ようやく探し当てた妻から出たセリフは「あなたは今でも変わらず大理石の男なのね。でも私はただのくずよ」。作られた労働英雄のイメージにまで生身の自分を高めようと必死にあがいてきたビルクートは、こうしていたるところで人間の社会の醜悪な現実にぶつかるのです。

この映画を観ながら、僕はやっぱり小泉今日子さんのことを考えていました。昨晩のTBS『ぴったんこかんかん』で、小泉さんも、一生懸命自分を理想のアイドルにまで高めようと決意した、というような意味のことを言ってませんでしたっけ?

ビルクートは不屈の肉体と精神力を持った「大理石の男」でした。でも、誰もがそんなに強靭な心身を持っているわけじゃないと思うんですよ。ヴァーチャル・アイドルではないのですから、容姿が衰えるのは、まあ当たり前。今後もメディアを適度に翻弄しながら、楽しませてくださいな。そして、たまにでいいですから、いいミュージシャンと組んだ「らしい」音楽を届けてくれれば、それでいいんじゃないかなあ。たとえば「厚木」。クスクス笑いの混じった歌唱はもちろん演出なんでしょうけど、安心して、気楽に聴ける一曲です。