菅季治[かん・すえはる]が死をとげたちょうどそのころ、私は北海道東部の小さな炭鉱の労務課員として働きながら、落魄の思いで日々を送っていた。 一九四五(昭和二〇 )年、日本が無条件降伏の声明を出した八月一五日以降も、樺太では、北緯五〇度の国境…
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