さよなら京都
一九〇九年にバザーロフは『神の建設』という著書で、宗教分野に関する新しい考えを展開し、定義さえした。彼によると、それはイデアリストの思想家や作家の言う「神の探求」とも異るものだった。「建神者」にとって神はまだ実際に存在していなかったが、人類の集団的努力が社会の神、そして社会主義的神を建設するだろう。この主張はつぎにのべられるようなレーニンの思想とは対立した。「黄色い悪魔と青い悪魔の見分けがつかないように、神の探求と、神を創造し発明し建設することの区別は難しい。」
一週間前の今ごろは、研究会を終え、懇親会に出て、会計が済んだのでみなより先に退出させてもらった。京大の教授と名誉教授が店先まで送ってくれ、「ホテルまで帰れますか」というので、「地下鉄駅さえわかれば帰れるでしょう」と答えた。「地下鉄はあっち方向です」というので、三条(というのかな)のアーケードを歩き、人に確かめて地下へ降り、市役所前から烏丸御池、そこで乗り換えて京都駅まで帰った。地下街では店がどこもシャッターをおろしている最中だった。ホテルで、ノンアル飲料、一本飲み直し。
今年は、もうそれで一応の義務を果たしたようで、大いにほっとした。となるともう、あとは帰心矢の如し。何回か書いたので詳しく書かないけれど、翌朝、一〇時半の特急「はるか」で関西空港、二時間余りは本を読んでつぶし、北海道へ帰ってきた。
ぼくは大学の教師はとうにやめたから、今回のように科研費で研究会に呼んでもらうという機会は、この先もうめったにないだろう。
七月の札幌滞在と、今回の研究会と、ふたつの遠出を抱え込んで、事前にはたいそう気が重かった。けれど、七月の札幌から帰ってきて、いったんぐんと気が楽になった。あの滞在の間に、八月の研究会の準備にだいたい目途がついたのが大きかった。八月のオーガナイザーや外国人の報告者とじかに話ができたし、スカイプも、何となくこれならできそうだという確信が持てたのは、札幌においてだ。
で、京都は、何人かの人に「三六度くらいになりますよ」「熱中症が心配だなあ」と言われていた。ぼくも暑さにはいささか自信がない。けれど、たった二泊で、一日じゅう外で街歩きという日程でもない。屋内はどこもエアコンが効いている。むしろ、帰って来た日の北海道が、蒸すなあ…と感じたくらいだ。
あれから一週間。今年の北海道の八月は、いつになく秋が早く来たような感じで、台風でひと雨来たこともあって、もはや澄み切った秋の空気なのだった。
竹田の子守歌
われわれは遠慮もなくとうに亡くなった人々の手紙を読んでいる。そうやってわれわれはよその家族へと入り込み、彼らの事跡と人柄を知ったのである。それがどうしたというのか? 知って、好きになってしまうということのうちには、悪いことはない。そして我々が彼らに出会ったのはありとあらゆる悲痛さの日々においてである。いろいろの不安に心引き裂かれる母親、消えつつある花の咲く暮らし、住む場所を追われた家族全体。まさにここで、心から人の身になって考えるということが生まれやすくなる。われわれはその人々とともに歴史という広い舞台へと出てゆくのであり、個人として彼らの身になって考えることは、われわれをいわば歴史的出来事の同時代人にするのである。なぜならわれわれがその人らに出会う際の彼らの家庭のやっかいごとは、あまりにじかに時代の歴史、つまりナポレオン襲来と結びついているので、 個人の暮らしのなかへの全般的ちからの干渉が、ここではとりわけはっきりしているのである。小説家は、歴史小説を書こうと思うと、あれやこれやの形で歴史的事件の急展開に巻き込まれる何人かの平凡な人々の人生をストーリーとして選び出す。彼らの気分や運命のなかに、小説家はイメージの形で、巻き起こった竜巻がどう作用したか、つまりその組成、方向、強さを描いてみせる[…]
京都行き、もう少し書いておく。
いろいろヒヤリとすることはあるにはあった。一日滞在を延ばして観光、というのは自分は予定していなかったので、研究会の次の日は、もう関西空港にいて、保安検査も早々に済ませて、モームをむさぼり読んでいた。搭乗口は保安検査場から一番遠いところだ。まだ誰もいない、がらんとした待合室。ふとポケットを探ると、iPodTouchがない。他のガジェットはなくすといけないのでリュックのなかだが、これは「はるか」のなかで聴きながら来たので、ポケットの中になければおかしい。さあ大変だ。
しかし、冷静に考えれば、その少し前に、トイレへ入った。そこに違いない。すぐに行ってみると、ちゃんとあった。まだ出発まで時間があるがらんとしたエリアだから、人に見つからずに済んだ。悪意のある人に見つかればもちろん取られてしまうし、そうでない人に見つかった場合も、どこかに届けられて、手もとに帰ってくることはまずありえない。危ないところだった。
お盆休みは今日からなんだろうけれど、先週にも夏の休暇中らしい旅行者はたくさん見かけた。出発の空港では、北海道観光を済ませたらしい若夫婦が「ビール買おうよ」「うに丼も食べたし、ビールを飲みながら飛行機なんて最高ね」といった会話をしていて、楽しそうというか、幸福そうだったなあ。いいなあ。
帰ってきて、研究会からはもう一週間経とうとしている。何でこうなったのかよくわからないのだが、ゲルシェンゾーンとジャック・ロンドンとモームと海野弘氏の本を並行して読みつつある。勤めていたころのことはもうだいぶ忘れたが、8月11日というと、あの頃なら藪入りでほっとしていた時期か。
京おんな
アカデミーは十五世紀から十六世紀にかけて、イタリアの学者たちの間で大流行した。やがてそこから大学が発達してゆくのである。N・ペヴスナーの『美術アカデミーの歴史』[…]によれば、学会だけでなく、「半ば秘密的な占星学会」もアカデミーと称したという。
つまり、アカデミーには、秘密結社も含まれていたわけである。このことは、大学とかアカデミーが秘密結社に無縁ではないことを示している。それらは知識の独占的な組織であり、知の独占は権力に関わるから、ある秘密性を帯びる。そして入るには入社式が必要なのである。
京都行きの件、もう少し。
大学に関しては「自由な学風」という言葉は最高の賛辞だと思うし、自由な学風が特徴であることを自他ともに認める大学というのは、思いつくだけでもいくつかあるように思う。
むろん、排他的な学風を誇示する大学などどこにもあるはずはないが、いっぽうでは、大学というところは、どんなにオープンであることを目指しても、最終的なところでやっぱり他に閉ざされた場所であることを免れることはできない気もする。
程度の差はあれ、何らかの不文律を持たない組織というもの自体存在しないと思うが、たまたまぼくが十年以上勤めたところでは、生え抜きの教員だけが暗黙のルールに基づいて組織の運営に参画しているのではないか、と考えられる節も多々あって、それが大きな孤立感のもとになったりした。で、しょせんあれは秘密結社の一種なのだから、と指摘されると、なるほどと腑に落ちる。
今回、たった半日滞在しただけの京都大学がどんなところかは、もちろんぼくは知りようがない。学生と教員の間の風通しなどは、きっとずいぶんいいところだろう。研究会にも、ロシア語での会で通訳もつかないにもかかわらず、三十名くらいの参加者があった。ただ、京都に住んでいたとて、一般の人が立ち入る機会がそうそうある場所とも思えない。
京都に限らない。札幌でも、北大の構内を散策している市民や観光客は多いが、それをもってオープンな大学とは言わないだろう。大学院に入る前の八月、内地へ帰る途中、札幌で降りて見学させてもらった時の北大は、やはり閉ざされた城塞のように見えた。あのときは、北大通りの古本屋で、フォルマリズムの本を買ったのだった。
今日はこれくらいにしておこう。
鴨川
私はときおり、どこぞの娘がどこぞの若者と出会った、そんなある日のことを思う。その日がいつの季節のことだったかも、それが起こったのがどこの土地でのことなのかも、私は知らない。娘のことも、若者のことも、見た目にどんな人たちなのかもわからない。にもかかわらず、ふたりが私のこの空想上に生じた日にたがいに会うために出かけたことから、この世に私が現れるということが生じた。
もしその出会いがなかったとしたら? それでもやっぱり私はべつの人々のペアから生じていたに違いないだろうか? ほかならぬ、この私が?
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京都行きのことをもう少し。
じつは、かなりプレッシャーは強かった。ロシア語での報告というのは、去年、たった一回やったことがあるきりだ。いや、遠い昔、大学院の演習で、ロシアから来たえらい先生の指導のもとやったこともある、それを入れてもたった二回きりだ。で、知らず知らず免疫が低下していたのだと思う。京都に着いてホテルに入り、コンビニで買った遅い夕食を食べていると、唇のところがはれぼったくて、鏡を見ると口唇ヘルペスが出ていた。
次の日の研究会は午後からだ。午前のうちに、薬局で口唇ヘルペスの薬を買うか、耳鼻咽喉科にかかるかと考えた。しかし、次の日になっても、痛さはさほど感じないし、黙っていれば目立つというほどでもない。そこで、薬局も耳鼻咽喉科も行かないことにした。帰ってきて一休みすれば自然に治るだろうとも感じられたし、薬ならまだうちに使いさしがあるはずだ。
研究会当日は、午前に観光だとか、とてもそんな余裕もない。そこで、12時に開場の演習室を開けてもらう予定のところ、早く着いて、10時半くらいから廊下にいた。学生用の掲示板など見て、こんなサークル活動があるのか、と感心し、別に退屈もしなかった。
本番は、スカイプがつながらなかったり、つながっても画面をプロジェクターに映せなかったりいろいろあったが、終わると、案の定、のしかかっていた重圧が取れて、急に気が楽になって、懇親会にもついて行った。私鉄の何とかいう駅までみんなで歩いたのだけれど、ザーッと夕立が来て、いっしょに歩いておられた大先生が「今日、雨なんか降る予報でしたっけ」と困惑しておられたので、前を歩いている人に声をかけて、傘に入れてもらった。そういえば去年も学会の支部会のあと、同じようなことがあった。ぼくのリュックは頑丈なイタリア製だから、あのくらいの雨では中のパソコンまで濡れたりはしない。
それにしてもやはりふだんへき地にいるから、京都は大都会だ。「京都は都会と思っちゃいけません」とおっしゃる先生がかつておられたが、けっしてそんなことはないだろう。懇親会も、ずっとみなと話をしていたいような会で、ほんとうに今回は行ってよかった。
で、帰宅した日曜日の夕食のまた楽しかったこと。口唇ヘルペスは別に薬も塗らないが、治りつつある。
忘れじの京都
I use the word artist, not meaning to attach any measure of value to what he produces, but merely to signify someone who is occupied with the arts. I wish i could find a better word. Creator is pretentious and seems to make a claim to originality that can seldom be justified. Craftsman is not enough. A carpenter is a craftsman, and he may be in the narrower sense an artist, he has not as a rule the freedom of action which the most incompetent scribbler, the poorest dauber, possesses.
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京都へ行った話。記憶が鮮明なうちにもう少し。
無事帰っては来たが、いろいろ失敗もあった。研究会でプロジェクターにパソコン画面を映せなかったこともそうだし、ほかにもひやりとすることがあった。
帰りの日は、朝早く起きて、チェックアウトはまだしないが、7時すぎごろすぐそばの京都駅へ行って、10:30の関西空港行き「はるか」の指定席をとった。で、10時にチェックアウトすればよいのだが、もう落ちつかず、9:20頃チェックアウト。駅へ着いて、改札を早々にくぐってしまう。
そのとき、電光掲示板で「はるか」の出発ホームを確認した。確認したつもりだった。8番。そうか、ならこっち側だ。そこにカフェがあったので、入ってアイスコーヒーを注文し、席へ坐って時間をつぶす。モームの『サミング・アップ』。ペイパーバックを出発のときリュックに放り込んどいた。すいすい読めて、奔馬にまたがって大草原を疾駆するかのようだ。
しかしなんか、変な予感がする。で、10:15くらいにカフェを出て、その8番ホームの電光掲示板を見るが、10:30の「はるか」など表示されていない。奈良行きか何かの電車が出るホームだ。あわてて改札口方面へ戻り、「はるか」はどこか見回すと、ぜんぜん逆側の30番というホームだ。
あわてて速足で人をかき分けるように30番へ向かう。まあ、楽々間に合って、売店でお茶を買う余裕もあったが、自分の粗忽に冷や汗が出た。なぜ8番などと勘違いしたのか。見間違えだとしか言いようがないが、カフェを早く出てよかった。
続きは明日書こう。
モームだが、今こうして引用してみると、「彼は持っていない」という文で助動詞doesを使わず、He has notとあるのに気づく。こういう点が、こないだ読んだ『英語の歴史』に書いてあったことと一致していて面白い。
206番に乗らずに済ませた京都について
日本のように一つの国で一つの言語に統一されている例は世界では決して多くない。国の中でいくつかの言葉が話され従っていくつかの言語が積極的にせよ、消極的にせよ習得される。リルケの場合も家庭で話したドイツ語と街できくチェコ語はそのようにして習得され、さらに、フランス語、ロシア語へとその知識は広がってゆく。しかし、このことは四つの言語がいつもできたのではなく、ある時期にはある言語は忘れられているのである。自分の母国語といわれるものはともかく、その他の言語はあんがいあっさり忘れていくし、母国語でさえ使う機会がないとその危険がある。
京都に行ってきた話。
とにかくしごとの一環として行ってきたわけだけれども、京都大学というところがその会の会場だった。で、以前一回行ったことがあるので大丈夫だろうと思っていた。
事実大丈夫だったのだけれど、駅からバスに乗るか、地下鉄で今出川まで行ってそこからバスに乗るか、少し迷った。で、地下鉄がよかろうという気がして、地下鉄に乗った。
で、降りて、次はバスだが、バス停がわからない。地上に出てすぐに出くわしたバス停では立命館大学行きの路線しか示されていない。で、コンビニに入った。店員さんは忙しそうだったので、イートインに座ってスマートフォンをいじっている学生風の男子に尋ねたら、「あっち方向なのは確かです」と道を示す。見るとそっち方向にバス停がある。ああ、見た記憶あるぞ。同志社大学大学院という看板のかかった立派な門があるところ。
そのバス停はいくつかの路線が通るみたいで、よそ者にはその表示されている路線図すら読み解けない。で、若い男女二人連れに尋ねると、201番というバスが来るのでそれに乗れ、とのことだ。なんか聞いたことがると思って「くるりの曲みたいですね」と言ったら相手はきょとんとして、「そこまで詳しくなくてすみません」と言うので、「いや余計なことでした」とごまかした。
あとで思い出したが、くるりの「京都の大学生」に出てくるバスは201番じゃない、206番だ。あとで、それは京都駅から京大へ来るときに乗るバスだと判った。今回はそっちに乗らなかったけれど、会の主催者の先生らによれば、そっちは京大に来る前にいくつかの観光名所となっている寺院を通るので、観光客で混み、しかも遅れがちというので、乗らなくてかえってよかったわけだ。
会場は文学部なんだけれど、さいしょ間違えて、正門ではなく南キャンパスの門のほうへ入ってしまい、しばらく迷った。以前学会できたことがあるが、どうもそこは文学部じゃないみたいで、見覚えのある棟の前に立つものの、今回は開くドアもない。学生さんをつかまえて尋ねて、通りをはさんで逆側に正門があり、文学部はそっちのキャンパスだと知った。
昨日は空港には20分遅れで着陸。今日だと台風が直撃して、そもそも関西方面は全て欠航だ。昨日帰れて運がよかった。道の途中でうちに電話するとたまたま妹が来ていて、ご飯の支度はしてないみたいだから寿司でも買ってくればと言うので、そうした。肩の荷が下りた解放感で、みやげ話を老母に聞かせながら、とても楽しい夕食だった。
このひとつ前のエントリーは昨日投稿したつもりが、すでに日付が変わった深夜だった。今日の日付で二つ目の投稿になってしまうが、そういうわけなので。
京都慕情
さて、四月に揃ってスタートする外国語の学習は秋になり、冬になるにつれ、そのテンポに乱れが出てくる。フランス語やスペイン語では柿の実が色づく頃には初歩の文法が終り、易しい読物が読めるのに、ドイツ語ではまだ文法が続いており、そのドイツ語が読物に取り組んだとき、ロシア語はまだ文法が終わっていない。このことはロシア語が難しく、スペイン語が易しいということではない。何語であれ一つの外国語をきちんと習得することは容易ではなく、極端にいえば一生の仕事である[…]
京都に行って来た。
おいおい書くけど、よっぽど田舎風のおじさんに見えたんだろう。今日、帰りの便に乗るため関西空港で保安検査を済ませて、搭乗口で待つあいだスターバックスへ寄ったのだ。でもスタバなんてもう何年も入ったことがないのでメニューも忘れている。サイズもたしか「トール」とかそんな言い方だがちっとも思い出せない。そこで、正直に「冷たいコーヒーの中くらいのやつをください」と言ったら、女子の店員さん、嫌がらずに笑って応対してくれた。
行きの日も、京都に夜の十時に着いて、JRの改札を出たら京都タワーが目の前にある。でもホテルは京都タワーとは駅をはさんで反対側なのだ。そこで、飲み会帰りのお勤めの方々の集団に「反対側へ行くにはどうしたらいいですか」と訊いたら、上へあがって渡ればいいですよ、と。「ありがとうございました」と言って別れたけれど、彼らが「ずいぶんレトロなおっちゃんや」的なことを語り合っているのがちょっと聞こえた。
研究会は、このSurfaceの画面をプロジェクターに映すためには変換コネクターみたいなアレ(名前が出てこない)が必要なのをすっかり忘れて、必要なものをホテルに置き忘れるという失態。しかし、主催者の先生がたの対応は冷静かつ臨機応変で、何とか形はついた。たくさんの人々の厚意と熱意のおかげで、夢のような修学旅行だった。
京都慕情 ベンチャーズカバー Kyoto Bojo Ventures Cover / Highball Ventures with K