俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

英語の語彙は8000から1万語を目指そう~鳥飼玖美子『本物の英語力』

 まず、よく「ボキャビル(ボキャブラリー・ビルディング)」の必要性が言われますが、「語彙」はどの程度あったら良いのでしょう。話したり書いたり使いこなすことのできる発表語彙は、読んだり聞いたりした時に理解できる受容語彙よりも少ないとされているので、たくさん知っていればいるほど良いに決まっていますが、頭の中に詰め込める単語の数には限りがあるような気もします。これを見極めるには、「何のために英語を学ぶのか?」という、そもそもの目的を確認する必要があります。ちょっと海外旅行に行くから、というのなら中学レベルの語彙で何とか間に合うでしょう。けれど、仕事で英語を使おうという場合は、8000語は必要です。何かの問題について議論するとなれば、1万語は欲しいところです。北米の大学や大学院に留学して本格的に学ぶとなれば、やはり同程度の語彙力は必要で、アメリカの一流大学が入学の条件としているTOEFLスコアを見ると、およそ8000から1万語レベルであるのが分かります。ちなみに英語母語話者の語彙サイズは2万語くらいと言われています。

 

本物の英語力 (講談社現代新書)

本物の英語力 (講談社現代新書)

 

  ひさびさに『ジャパン・タイムズ・オン・サンデー』。一週遅れだけれど、明日か明後日また今週号が来るので、あわてて読む。が、そんなにあわてても頭の栄養にならないので、2時間で5ページくらい。なにせ、ニュースの速報性はCNNにかないっこないけれど、読んで正確に理解しておくためには書かれた媒体がけっきょく必要だ。

 そうして読んでいると、やっぱり語彙は、書かれたものの方が多い。しゃべるニュースでは使わない言い回しが論説などではバンバン出てくる。それを読めてこその英語力だと思うので、おろそかにせずにきちんと読む。

 それにしても、倉本聡が脚本を書いているというTV朝日の昼のドラマ『やすらぎの郷』に関する論説は面白い。

In the Asahi interview, Kuramoto complains of the treatment that his generation of professionals has received at the hands of TV. His bitter reaction was provoked by the 2009 death of actor Reiko Ohara, who was one of the most popular Tv and movie stars of the 1970s through to the '90s. Ohara all but disappeared by the late '90s and became a recluse. She died alone, her body undiscovered for several days. To Kuramoto, the indignity of her passing symbolizes what he feels is the heartlessness of the industry.

 大原麗子孤独死に追いやったTV産業の冷酷さに倉本氏がいかに怒っているか、というその点はとうに話題になっているのだろうけど、ぼくはこれを読んで知った。

やすらぎの郷』は何回か観て面白いなあと思った。TVや映画で活躍した往年のスターを受け容れるユートピア的な保養施設の話で、石坂浩二が演ずるシナリオライター浅丘ルリ子が「わたしにホンを書いて」と抱きついたり、けっこうなまなましい刺激のあるドラマだ。

 で、語彙の話だ。8000から1万語、これなら絶望的ではないよ。毎日、ニュースサイトを読むなどして時事的な英語に触れているだけでも、1,2年でそれくらいは行くように思う。ただし、やはり辞書は引いた方がいい。この本にも[スキミング」や「スキャンニング」など、一種の飛ばし読みのことが書いてあるけれど、ぼく個人は、そうした「ななめ読み」「飛ばし読み」をしても、あ~読んだという満足感はない。だから、あんまり興味がない。あくまで正確に読むことを続けているうちに語彙もだんだん増えてやがて早く読めるようになり、あげくにざっと目を通して内容をつかめる、といった高等技術に達するのがいいと思う。 


How to increase your vocabulary

ジョン博士は「そんな夜」と歌う~クレソンのかき揚げ丼を食べる四月某日

In 1973, I got together with Allen Toussaint to do an album with the Meters, who were fonkiest rhythm section anywhere. I had known Allen and the organist for the Meters, Art Neville, from the recording scene in the late fifties and early sixties. The other Meters - Leo Nocentelli on guitar, George Porter on bass, and "Zigaboo" Modeliste on drums - I got to know in the late sixties as they came onto the scene

 

 

Under a Hoodoo Moon: The Life of Dr. John the Night Tripper

Under a Hoodoo Moon: The Life of Dr. John the Night Tripper

 
フードゥー・ムーンの下で

フードゥー・ムーンの下で

 

 

 今は季節はいつなのか。

 先日、最高気温が20度になった日曜には、買い物に行くと短パンの人がいて、ああ初夏かなあと思ったけれど、今日は四月の二〇日すぎというのに、一日じゅう、湿ったぼた雪が降っている。ということは冬の終わりなのか。

 夕方、老母がお友達からクレソンをいただいてきた。採れるところを知っている人が採ってきておすそ分けしたてくれた、さらにおすそ分け。どこか山奥の、水源池か湿地のようなところだろう。ぼくらはそんな場所を知らない。

 ほんの少量だけれど、老母がそれを揚げて、夕食はクレソンのかき揚げ丼になった。おいしかった。これは毎年一回くらいは食べている。冬の終わりと初夏がせめぎ合う、今の季節の味がする。

 タラの芽というのも昔はよくテンプラで食べたけれど、今はめったにそこらで採ってくるという話を聞かない。高価な山菜を狙って採る人がいて、すべて業者に持ち込んでいるような話も聞く。とうていぼくらの口に入らない。

 その他の、あまり山奥まで入らずに採れる山菜はあって、このあと、一、二回は山菜天丼が食べられるだろうと思う。

 四月は大好きなのだけれど、四月になったと喜んでいるうち、あっという間に終わってしまうことがほとんど。いつぞやの四月はぼくはまだ勤め人で、五月の連休にはドクター・ジョンの伝記かなんか読もうと思っていたんだっけね。まだ、となりの私設研究室(四畳半)に出したままだ。

 ドクター・ジョンiPodにも入っているけど、ダウンロードで昔のをいろいろ買ってしまいそうだ。ほんと、今ごろの季節は、こんなのを聴いていたい。こういうのが、どうも本業のロシア関連の勉強とそりが合わなくて、昔からの悩み。かといって今さらどっちかを選ぶ、という話でもない気がするし。

 NHK-FM『アニソン・アカデミー』、今日久々に少し聴いた。これに出て来るあべあきらさんというかたがアラン・トゥーサンのかなりのマニアらしくて、あら父さん。バラカン師匠は、Toussaintの語末のtはサイレントじゃないと主張するが。


Dr John's Best Ever version of "Such a Night" piano blues

 

アナロジーについて考える寒い四月某日~MacBookも一度使ってみたい

 このように読者のみなさんには、ヘーゲルの思想やモノの見方を具体的な例に落とし込んでいく技法を身に付けていってほしいのです。安保関連法やプーチンのような大きな題材だけでなく、洗面器のお湯に温度計を入れるとか世論調査のやり方といった身近な例で構いません。

 この作業に必要なのは、入学試験や資格試験のために身に付けてきた、公式や理論を憶えて練習問題を解いていくという技法ではなく、物事を類比的に理解していくアナロジーの技法です。アナロジーとは、物事にある何らかの鋳型やひな形がどう変形しているかを推論することで、ヘーゲルが言っていることの関係性や構造がまったく関係ない問題にもどういうふうに表れているかという読み解きをしていくのです。神学では、アナロジーを多用します。物事の森羅万象から神の意志を読み解くというように「アナロジー」を使えば「関係の類比」になります。

 思考の鋳型を身に付けるには哲学の知識が必要ですが、アナロジカルな見方をするためには文学的な素養が必要になります。すぐれた小説を読んだり映画を観たりすることは、他の人の体験を類比的にとらえていくために必要なことです。

(157~158ページ)

 

知の操縦法

知の操縦法

 

  おっとなったので、拾っておこう。

 ぼく個人の体験にすぎないのかもしれないが、「それはアナロジーだ」というのは、本質を衝いてないからお前のその論法はNG,という意味でつかわれることが多い気がする。つまり、形が似てるからというだけで違うものを同列に並べるのは、ただの牽強付会ですよ、という。そういう理由で論文なりレポートなりにケチがつくということはよくあるように思う。そういう経験ないですか。

 けっきょく、裏付けとなる調査とか、客観性とか、説得力とか、そういうものを合わせての評価だろうから、アナロジーがもとになっているから絶対にダメというわけでもないのかもしれない。自分のばあい、もともと歌謡曲における「パクリ」の問題をめぐって道楽としての音楽に深く深くのめり込んだことが、そののち多少心を入れ替えて学問の道に入ろうとした時にもまがった方向に出ちゃって。

 いや、それでうまくいっているかのように思っていたときもあった。ほんの何本かは「あれはよかった」といってもらえた論文が、ずっと過去にはあって、それはでもやはり、自分で言うのも変だが、アナロジーに人一倍敏感だったからじゃないのか、と今でも思うのだ。

 中学生の頃、音楽の時間に「早春譜」を歌わされた人も多いと思うけれど、ぼくのころ、となりのクラスのやつらは、「これ『知床旅情』でないのか」と言って、みんな不満そうに歌っていた、ということがあった。なんだか懐かしい。

 ハロルド・ブルームか誰かが言っていた通り、そういうもののリサーチはやがてコンピューターがやるようになり、黙示録的に終わってっしまうだろう気もするけれど、脳のよろこびとしてのアナロジーって、やっぱりあるように思う。

 パソコン、やはり先立つものしだいということで、当分新調はできないかなあ、と思いつつ、動画など見てしまう。CPUがCoreiじゃないシリーズって、どれくらいの実力なんだろうか。


Titanfall On A New 12" Retina MacBook 1.1ghz Core M Model

 

 

 

影響の不安―詩の理論のために

影響の不安―詩の理論のために

 

 

 

ドラマチック・ブルース~是清さんも熊楠たちを教えた語学教師だったらしいことなど

ロンドンの空気も、けっして日本にとってよいものではなかった。日英同盟はあったが、これは戦争の相手が二ヵ国になったとき共同参戦するというもので、相手が一国の場合は援助する必要がなく、イギリスは中立国の立場にあった。また王室の関係からいっても日本に金を貸すことの危険は大だった。高橋はまず金融界の巨頭たちと親密になることによって、このような空気をときほぐそうと持ちまえの精力的な努力を続けた。それであるから、三十七年五月イギリスの銀行家たちによって予定の一千万ポンドの半分五百万ポンドを六分利付、関税収入抵当という植民地的な条件で、ともかく成功させるまでの高橋は大変な努力をした。当時、国際金融を牛耳っていたロスチャイルド家やカッセル家とも交渉を続けながら、実際の起債の仕事は正金、香港上海、バースの三行にやらせるという堅実な方針ですすみ、対日感情を有利に展開させるように心をくだいた。

 

 

高橋是清―財政家の数奇な生涯 (中公新書)

高橋是清―財政家の数奇な生涯 (中公新書)

 

 苦労して仕送りをして大学に送り出したわが子が、友達もできず、学校にもなじめず、思った勉強もできず、自暴自棄で不真面目な悪い子になって帰ってくる。大げさに言えば、ぼくが最初大学に行って帰省してきたとき、親の目にはそう映っただろうと思う。

 だからというわけでもないが、姪たちが親元を離れて学生をしていると、そのことがいつも気になる。

 かといって、大学に直接乗りこんでいって、うちの子にはこういう勉強をさせてください、と注文をつけるようなことをすると、いわゆるモンスター何とかだ。英語ではparachute parentsとか呼ばれているのを読んだ記憶がある。学生寮の舎監に相談の電話が来るくらいなら昔からあったが、アメリカでも些細なことで学生部長に直談判を申し込む親がいるとか、あれは何で読んだんだろう。で、ぼくは親じゃないし。

 むかし子供らが小さな頃うちに来て読んでいた絵本やマンガ本は、今でもそのままにしてある。片付けてもいいが、そうするとさびしくなるので。

 で、そこに新書本のたぐいを並べてある。興味があれば(興味がなくても)、持って行ってパラパラ眺めてくれればいい、そんな本。今年の正月、上の子が帰省して、うちにも顔を出し、何冊か置いてある本を持って行った。

 「読んだか? どうだった?」ということはしないようにしている。読まずとも、表紙を眺めるだけでも違うだろう。是清さんのことは講義で出てきたみたいなことを言っていたが、二〇歳くらいでは経済運営の機微が実感としてわかるはずがない。

 内田春菊の漫画では、南方熊楠の東京時代の英語の恩師が是清さんだった。wise womanというと「賢い女」ではなく「まじない師」の意味になるんじゃないかのう、と米国仕込みの英語の使い手である是清さんに逆質問する、そんな場面があったっけ。

 

 

 こういう話をうんと仕込んでおいて、千変万化、自由自在の脱線ができる、そんな先生を目指していたのは、つまり昔の自分に、そういう親身な教師がいてほしかったからだ。どうもこの話は、最後にはそこに行きつく。

 四月は語学教師にとっては憂うつな月。語学やる気ないんでヨロシク、という若い人が何百人と攻めて来る。それを一年かけてこっちの味方につける、そこが腕の見せどころで、それだけは面白かった。それさえあれば、業績とか研究とか、もうどうでもよかったな。

 あの頃、語学に関係なく、気まぐれにいろんなCDを講義室でかけたが、これはさすがにまずいか。


應蘭芳 ドラマチック・ブルース

 

帯広の夜~文学やつれと語学やつれなど

世上、縁談窶(やつ)れといふ言葉がある。今まで何回も見合ひをして来たが、残念ながらその都度、もうちょっとのことで良縁がなかった。いつ結婚できるか気になることだ。さういつた女を、不憫に思つて言ひだした熟語だらう。女として必ずしも欠陥があるといふのではない。これに似たやうな世間的な取合はせで、大正期を経て昭和初期になると、文学青年窶れといふ新しい熟語が出来た。私が荻窪に引越して来る前後の頃に出来た言葉ではなかつたかと思ふ。 

 

 

荻窪風土記 (新潮文庫)

荻窪風土記 (新潮文庫)

 

  やつれるほどに何かをしたことなどないぼくだが、「語学やつれ」ぐらいいっぺん言われてみたいものだという気はする。

 「文学やつれ」というとちょっとやはりぼくの場合は違う気がする。大学院で専攻したのは文学に違いないけれど、どうもぼくの興味はそれとも微妙にずれている。

 これはいくら言っても通じないことが多いけれど、英語の力が半端のままというのが、自分にはどうにもすっきりしない負い目だった。勤めていたころ、退勤時間はそんなに遅い方ではなかったけれど、それでも帰宅して原書を読む余裕がないことがやりきれなかった。ロシア語の本もそうだったけど、いつも引っかかっていたのは、とっくに読めているはずの英語。そしてあのころ本棚を眺めたとき、読みたいと思う本の半分以上は英語の本だったと思う。

 過ぎたことはもういいのだけれど、この時期はいつもゴールデンウィークが待ち遠しくて、いつも外国語の本を詰めたカバンを車に乗せてこの家に帰省していた。今年は五月の一,二日を休むと九連休だそうだけれど、あのころ勤めていたところも、連休のあいだの平日は振替休日の措置が取られていたはずで(今は知らない)、それだけの休みがあれば、原書の数冊は読めるような気がいつもしていた。

 いつかの年は、たしかフォークナーの『響きと怒り』のペーパーバックがかばんに入っていたけれど、あれはどうしたんだろうか。その後まったく見つからない。

 どうやら自分は自分の英語力について完全に錯覚していたのではないか、とは今になって思うことで、連休中、体を休める片手間に英語の本が何冊も読めたりはするはずがなかった。その後、平日もうちにいるような暮らしになって初めて、英字新聞を読み、ネットラジオを聴き、眠っていたペーパーバックを引っ張り出し…というレベルにようやく至った。

 だいたい、北海道の端っこのほうに生まれて、最初から原書がスラスラ読めて、若くしてあっという間に文学や哲学の根本問題に至り着き、そこで深く苦悩する…という、ニーチェ漱石や鷗外のような「文学/哲学やつれ」の境地に至ることがありうるのかどうか、ぼくにはとうていわからない。東京に出て行った山口昌男柳瀬尚紀はまた別かもしれないが、かれらとて、どっちかというと語学青年の感じがする。

 ぼくの場合は、メールボックスにはいまだにTOEICの案内が届き、電子辞書をどれにするかで迷い、買いためた安物の原書を読めたり読めなかったりに一喜一憂し…という、そんなレベル。これは半面では刺激のない生活を送っている証拠でもあるけれど、いきなり高度なものを読もうとあせることは、今はあんまりない。むろん、金になるかならぬか別として「しごと」と思い定めたことはちゃんとあって、ときどき自分に無理を課すこともある。が、無理ばかりでも続かない。

 いつもうちにいるのにおかしいのだけれど、ゴールデンウィークが近いと思うとなんとなくウキウキするから不思議なものだ。


帯広の夜/山本ひろし&ショッカーズ(COVER)

 

春の嵐の日の夢に出てきた「ミスティ・トワイライト」

 神近女史は下井草のこの番地に住んでゐなかった。 その頃は無論のこと、現在も住んでゐない。神近さんは強力な左翼の闘士だから、警察の目を逃れるため、出版社などに知らせる住所は適当に出まかせを言っておくのだらう。その証拠には、下井草一八一〇神近市子様宛の郵便物は配達夫が私のうちに届けて来るが、たいていそれは商品見本や宣伝用の新刊書の広告などに限られてゐた。神近さんの知り合ひらしい人からの郵便物は一つもない。知らない人たちは文藝春秋社の「文芸手帖」を根拠にしてゐたらしい。

 

 

荻窪風土記 (新潮文庫)

荻窪風土記 (新潮文庫)

 

  電子辞書には英和辞典、英英辞典などのほか、百科事典も入っている。これを使わない手はない。なるほど。ということで、猛烈に引いている。

 すると、ソ連史のことも、いろいろ発見がある。スターリンソ連共産党書記長だったのは周知のとおりだけれど、フルシチョフになると書記長ではなく第一書記という呼称になる。これは、フルシチョフが集団指導体制を採用したから、となんとなく思いこんでいたが、どうもスターリン死去(1953年3月)に先立つ52年に「政治局」が「幹部会」に変更されるということがあり、それと同時に「書記長」は「第一書記」と呼称が変更になったらしい、とわかる。66年にブレジネフが政治局、書記長といった呼び名を復活させたという。

 しかし、それ以上くわしいこととなると、電子辞書ではわからない。ぼくんちにあるような文献を見ていても限界がある。ちなみに以下の本では政治局→幹部会の変更のことは触れてあるが、書記長→第一書記という呼称の変更に何の意味があったのかまでは書いていない。

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

  それにしても、百科事典はすばらしい。ここまでわかっただけでも大収穫だった。

 そうそう、「神近市子」という名も、百科事典を引けばばっちりわかる。以下の本、投げ売りされているので注文してみる。

 

女性思想史―愛と革命を生きた女たち (1974年)

女性思想史―愛と革命を生きた女たち (1974年)

 

  ぼくはとりたてて左翼思想の持主じゃないが、ソ連を舞台にしている本を読んでいると、知りませんでしたではいろいろ支障がある。ずっと昔、ソ連政治の授業なども取る機会はあったけれど、そっちは来年、まずは語学を、と思っているうちにその先生は転出されてしまった。大学院に入ってからもいくらでも機会はあったように思うけれど、上のような疑問を気軽にぶつける相手がいないという点で、ぼくは友だちが少ない≒世渡りがうまくないんだろうな。

 というわけで、どろなわ式の勉強が続く。

 今朝はいったん夜明け前に起きてCNNを見て、それから仮眠。夢を見た。もう営業をやめた小さな商店の二階が貸し間になっていて、そこに住んでいる夢。そして、なにやらやたら色っぽい気分で麻倉未稀「ミスティ・トワイライト」を聴いている。しかし、その歌詞が「わたしの作った巻きずし、あなたに食べさせたかったわあ~、アハン」とか、やたら所帯じみていて、何だこれ、と思ったら自室でぐーぐー寝ていたのだった。


麻倉未稀       ミスティ トワイライト

どのマックを買うべきか~パソコンはへき地でこそライフライン

 北海道の風景というのは、よくいえば雄大だが、曇りや雨降りのときには、”どんよりした風景が雄大”だから救いようがない。都会のように天候とは関係なくネオンがきらめいているような場所なら救いがあるが、どこを見ても陰鬱でモノトーンな風景が果てしなく続いていると、そこに身を置いているこっちの気分まで欝々としてくる。予定どおり国道を北へ向かって走る。どこまで行っても灰色の空の下から逃げ出せずイライラしてくる。[…] 

 

 

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

 

  北海道移住日記ったって、もともと道産子なんだよな著者は。それでも移住の語があながち大げさじゃないのは、北海道は広いので、北海道でも他の地方出身の人間には、道北のあの茫漠とした空気感はとてつもなく異質に感じられるから。描かれるのはその道北の下川町の暮らしだ。そこからさらに北への自動車旅行。

 北海道の四月は、まだ冬だと思った方がいい。昨日はなんと20度に達したから決して冬の気温とは言えないが、明日はまた4度か5度くらいの、雨と風の日だ。雪もまじるかもしれない。

 へき地暮ら̪しで困ることは多い。前にもちらと書いたが、東京や札幌の(かつての)同業者たちに伍して読書/勉強をしているつもりでも、いつのまにか自分だけとてつもなく小さな世界にいると気づくことがある。たまに札幌へ出ていくと、そのことを痛感する。他人の研究室を訪ねて、テーブルになにげなく置かれている本にショックを受けるということもある。例えば以下の本なんか、みんな読んでるらしいが、ぜんぜん知らずにいた。

 

Russian Pulp: The Detektiv and the Russian Way of Crime

Russian Pulp: The Detektiv and the Russian Way of Crime

 

 あわてて自分も注文して買ったが、ぜんぜん読んでない。

 ロシアの推理小説のたぐいの研究。この分野だと日本でも数名の研究者がいるけれど、 本がなければ研究できない分野だし、さらに言えば、本があるというだけでも研究が成り立たない。このテーマで日本語で書かれた論文を読んでびっくりしていたのがもう何年前のことだろう。

 あと、以下の本はずっと以前骨折で入院しているとき読んだが、きれいに忘れている。読み直したいけれど、もう古いのかもしれない。わからない。

 

Culture of the Future: The Proletkult Movement in Revolutionary Russia (Studies on the History of Society and Culture)

Culture of the Future: The Proletkult Movement in Revolutionary Russia (Studies on the History of Society and Culture)

 

  あと、これは原書を買ったけれど、読まないうち、いつのまにか邦訳が出ていた。

 

〈遊ぶ〉ロシア: 帝政末期の余暇と商業文化

〈遊ぶ〉ロシア: 帝政末期の余暇と商業文化

 

  以下の本も、読まないまんま、すでに二十一世紀も15年以上経つんだから恐ろしい。著者は札幌に一年いたことがあった。

The Genesis of the Brothers Karamazov (Series in Russian Literature and Theory)

The Genesis of the Brothers Karamazov (Series in Russian Literature and Theory)

 

  これはコピーして製本したのか? 今ならスキャンして電子的に処理して、タブレットで読むだろうけれど。

 

Dreams and the Unconscious in Nineteenth-Century Russian Fiction

Dreams and the Unconscious in Nineteenth-Century Russian Fiction

 

 

 

 院生時代、こうして図書館は惑溺の場だったけれど、いくらも読まないまま地方へ行くことになって、ぼくにとっての研究らしい研究は、それきりになったのだった。

 また今年も札幌で本を見せてもらえることになっているけれど、その前に、おととしからこの冬にかけての研究滞在の成果を、まがりなりにも申告しなければならない。かろうじて一点、記入できる成果がある。ほんとは数本の論文になっていないとおかしいのだけれど、大学にも所属していないし、そこがうまくいっていない。気軽に投稿できる研究会誌のようなものにも縁がない。あせっても仕方ないので、いろいろ可能性をさぐろう。

 パソコンは今のところ使えているからいいのだけれど、マックに乗り換えたい気持ちも強い。このエントリーはSurface Pro 3で書いていて、これにも不満はまったくないけれど、これとは別にやはりデスクトップがないと、音楽や写真の管理ができないし、安心できない。今使っているのはNECのデスクトップで、かなり高価だったけれど、そのぶん長く使えるだろう、と思っていた。現に5年使ったけれど、HDDの寿命の話など読むと、そううかうかしていられない。SSD換装のための数万円にあと少し上乗せして、マックという手はあるように思う。へき地でパソコンがなければ、もうそれは本当の孤立だ。

 以下のムックが届く。とりあえず情報収集。

 

マックとウィンドウズ 2017 ~いちばん簡単な「WinからMac」乗り換えマニュアル~ (Mac Fan Special)

マックとウィンドウズ 2017 ~いちばん簡単な「WinからMac」乗り換えマニュアル~ (Mac Fan Special)

 

 


Which Mac Should I buy 2017?