俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ブローティガン『アメリカの鱒釣り』~HDDをSSDに交換すればこのパソコンはもう少し長く使えるかも

豊崎 わたしが好きなのは「アメリカの鱒釣りテロリスト」。六年生の連中が一年生の背中に、白墨で「アメリカの鱒釣り」って落書きしまくる顛末が描かれているんですけど、〈わたしたちは、この一年坊主が背中にアメリカの鱒釣りと書きつけられたまま立ち去るのを眺めていた。なかなか結構な眺めだった。一年坊主の背中に白墨でアメリカの鱒釣りとあるのは、なかなかぴったりして感じもよかった〉、こういうくだりを読むと、村上春樹高橋源一郎の作家としての出発にあたって、ブローティガンという作家がいかに大きな影響を与えたかがわかりますね。 

 

百年の誤読 海外文学編

百年の誤読 海外文学編

 

  

 

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 

 

 

Trout Fishing in America

Trout Fishing in America

 

  こんなこともこの本に教えてもらうくらい無知である自分。文庫でもいいし、キンドルでも売っている。宿題が増えるばかりだ。ブローティガンのことは、出戻り大学生だったころに耳にしていないはずはないが、今の今まで読まないままだ。これでアメリカ文学のことを語っていたんだから、自分の無学が怖くなる。

 デスクトップのコンピューターの方が、買ってからまる五年経ち、そろそろ次をどうするか考え始めているのは、先日来書いているとおり。

 少しグーグルで検索をすると、パソコンの寿命とはほぼハードディスクの寿命だから、これを早めに交換することでパソコン自体はもっと長く使える、といったことがわかる。

 実際にぼくの使っているのとほぼ同型のマシンのハードディスクをSSDに取り換える手順を書いたブログなども見つけられる。ある種のソフトを使い、USB経由でSSDにHDDを丸ごとクローンコピーし、パソコン本体を開けてHDDを取り外し、SSDを固定する。あるいは固定せずに宙ぶらりんのままという例も見られる。できなくはなさそうだ。

 ただし、こうした改造のたぐいはすべて自己責任でおこなうのが常識だろう。よほど手馴れていないと、簡単には踏み切れない。SSDを買ってソフトでクローンコピーするところまではできそうだけれど、ドライバーで本体を開け、HDDを取り外し…というのはやったことがない。その作業だけパソコン修理店にやってもらう…としても結構なお金を取られるだろうし、かといって何の保証もないことには変わりはない。

 コーヒー店で英字新聞を読むが、たんなる語学の勉強でひと冬終わってしまったことに愕然とする。本業と思い定めた方面は、手つかずの本の山。難問山積。


CNET How To: Replace your computer's main hard drive with an SSD

 

 

 

ラッダイトとハッキントッシュ

 Last, and perhaps the most important, the Luddites were understood to represent not merely a threat to order, as riotous mobs or revolutionary plotters of the past, but in some way not always articulated, to industrial progress itself. They were rebels of a unique kind, rebels against the future that was being assingned to them by the new political economy then taking hold in Britain, in which it was argued that those controlled capital were able to do almost anything they wished, encouraged and protected by  government and king, without much in the way of laws or ethics or customs to restrain them. The real challenge of the Luddites was not so much the physical one, against the machines and manufacturers, but a moral one, calling into question on grounds of justice and fairness the underlying assumptions of this political economy and the legitimacy of the principles of unrestrained profit and competition and innovation at its heart. Which is why the architects and beneficiaries of the new industrialism knew that it was imperative to subdue that challange, to try to deny and expunge its premises of ancient rights and traditional mores, if the labor force were to be made sufficiently malleable, and the new terms of employment sufficiently fixed, to allow what we now call the Industrial Revolution to triumph unimpeded.

 

Rebels Against The Future: The Luddites And Their War On The Industrial Revolution: Lessons For The Computer Age

Rebels Against The Future: The Luddites And Their War On The Industrial Revolution: Lessons For The Computer Age

 

  高校生のとき、世界史か日本史どっちかをマスターしておくとよいのは何度か書いているけれど、ぼくの場合は、あれほどやりたかった世界史はものにならず、それでも政治経済がものすごく面白くて、そこで産業革命の歴史や、それに対抗して起こったラッダイト運動(機械打ちこわし運動)について知って、すごく興味があったのだった。

 この本は、7,8年前に、当時すでに金欠だったけれど買った。で、書棚に納めて、落ち着いたらぜひ読もう、と思っていた。今、生活がそれほど落ち着いてきたという実感があるわけではないけれど、昨日引用したD.クリスタルの英語史の入門書やルイス・キャロルの伝記とこの本が並んでいるのを見て、何とも興趣をそそられ、手に取っている。

 現代では、ネット通販があるから、お金さえあれば洋書を買うのは簡単だ。問題は読む力があるかどうかで、この本は難しい英語ではないが、ふつうの経済学部の学生が卒論に使おうと思ったら、やはり楽ではないと思う。

 こうして、けっきょく、経済史なりまたは経済学史なりに足を踏み入れるとき、大事なのは語学力ということになる。最初の大学の名物教授が言っていたけれど、経済史の専門家も大半はイギリス経済史を専門としている。そうでなければドイツ。それ以外を専門にする人はすごく少ない、と。これは正確にそうだったのかかどうか、実際には知らないし、今はまた違うかもしれない。でも、語学力の制約で研究対象が決まってくるというのは、実際その通りとしか言いようがない。

 ただ、そう書くと、イギリス史なんかやるのは意気地がないことのように響くのは困る。それはぼくの本意じゃない。歴史をやろうとするとき必要になる語学力は、半端なものではなかろう。また、日本にいて西洋の経済史をやるというのは、その動機や必然性の点でつねに厳しい問いに自分をさらすことになるだろう。日本人がそんなことをやる理由があるのか、と。

 この本はもう20年まえの本だけれど、コンピューター技術の凄まじい発展がすでに展開されつつあったころで、その観点でラッダイト運動を問い直す姿勢が興味深い。このアプローチなら、世界をおおう普遍的な問題としてラッダイトの反テクノロジー・反イノベーションを問うことができる。オートメーションで正業を失い、地域社会が崩壊するというのは、日本人にだって、けっして無縁ではない問題のはずだ。

 これと、発売から時間の経ったマッキントッシュをいろいろ改造したりしながら使っているマニアの姿が妙にかぶるのだが、どんなものか。そういうマック改造機を「ハッキントッシュ」というのか(注記 マックのOSをWindowsマシンにインストールしたものをそう呼ぶらしい)。こっち方面は、ぜんぜんうとくなってしまった。


My Hackintosh at 1 year. Has it been worth it?

 

音象徴と共感覚に関係があることを知って驚いていたことなど

It is a basic principle of language study that sounds don't have a meaning. It doesn't make sense to ask 'What does p mean?' or 'What does e mean?'. On the other hand, we often encounter words where there does seem to be some kind of relationship between the sounds and what is going on in the real world. We link a particular kind of sound with a particular kind of meaning. When this happens, we talk about 'sound symbolism'. When it happens in poetry, it goes under the heading of 'onomatopoiea'.

 

The English Language: A Guided Tour of the Language

The English Language: A Guided Tour of the Language

 

   今日は用事があって、リュックに入れて持って出たけれど、これを読んでつぶすほどの時間もなかったので、帰宅してパラパラ読んでいる。

 「サービス価格 500円」の黄色い値札。いつだか、某大学生協で買ったもの。もう10年くらいまえに、日曜日の喫茶店で読みふけっていたことがある。どんどん読めて、楽しかった。このひとの本は本当に読みやすい。

 サウンド・シンボリズム(音象徴)というのは、二度目に学生になったときに、これを熱心に研究する先生がいて、さんざん講義で聞かされたので、すごく懐かしい。ことばを構成する音そのものは物理的な空気振動に過ぎず、意味は持たないはずなのに、音そのものに意味があると思えるような、そんなことが実際にある。

 そのころ講義でその教授が言っていたのは、日本語をぜんぜん解さない外国人を相手にテストしても、「丸い」「四角い」は、どっちがround でどっちがsquareを意味するか、かなりの確率で彼らは当ててしまう、といったことだった。音そのものに、丸い感じのmやrと四角い感じのsやkといった明らかな差があるため、とそのことはその時わかった。

 何年か前、NHKテレビの爆笑問題の番組で、「共感覚」が取り上げられたことがあった。「共感覚」とは、音に色がついて聞こえたり、文字の中で母音だけが別の色に見えたり、という、視覚と聴覚といった別々の感覚が交錯する複合的な感覚のことだ。そのとき、そうした感覚の持ち主らしい女性が爆笑問題の二人に言っていたのが、「背の低い丸顔の田中さん、背の高いやせた太田さん、それが、耳で音を聞いた感じだと、こっちが太田さんで、こっちが田中さんのように思えてしまう」といったこと。ここにサウンド・シンボリズムの問題が顔をのぞかせていることに軽い驚きを覚えたのだった。

 こういう問題は今でも興味があるし、面白いと思う。ただ、こうした問題意識を文学研究に生かそうとすると、あんまり簡単じゃない。理解を得るのも難しいし、そういうやり方が奨励されてもいない。ノートを書いてパソコンのなかにしまっておくだけ、ということがほとんど。でも、それがいつか活きるときが来るだろう。

 Judy and Maryなんてバンド、ぼくはもうそんなものを熱心に聴く年齢じゃなかったけれど、割と好きで、CDシングルを持っていた。90年代の仄明るい感じを思い出すとき、このバンドのことを思い出す。仕事のない時に、アパートで、一時期、よく聴いていた記憶がある。


JUDY AND MARY『クラシック』

GAOのいたころ~九〇年代はまだ日なたの明るさのあった時代で

 いい天気なのに昼からマンガの原稿を描く。十五日が締め切りなのだ。ここに住みはじめてから、「マンガ家です」と名乗って何人もの人に疑いの眼差しを向けられたが、こうしてちゃんとマンガを描いて収入を得ているのだ。夕方、とりあえず描き上げた原稿を東京の出版社へファクシミリで送る。作品のでき具合を編集者にチェックしてもらうためだ。高級なファクシミリの機械を使っても、マンガ原稿の場合その繊細さまで送ることはできないので、編集者から了解をもらったあと生原稿を郵送してやらねばならない。

「マンガ家は東京に住んでいなければならない」「マンガ家は締め切りを守らない」というのは、マンガ家に対する間違ったイメージにすぎない。

「原稿はとっとと片づけ、だらだら遊ぶ」これが理想のライフスタイルだ。

 

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

 

  これも図書館の本。なんかこれ借りてきてすごくよかった。

 自分の場合、どこにも所属を持たないで、あらゆる機会をとらえて、勉強なり研究なりを続ける、というのも、要は浪々の身なので、そんなに楽しい事ばかりではない。心配事もいろいろと尽きない。でも、このはたさんは、北海道のへき地に移住してきて、こんなにのんびり楽しそうにやっている。この気楽さの、なんと明るいこと。もちろん、マンガ家として地歩を築いているからこそそれができるので、ぼくの場合とはまただいぶ意味合いが違うが、いいなあ。

 気付いたら、この文庫は一九九八年に出ている。もとの単行本は九五年。インターネット以前の時間が、はっきり刻印されている。

 九〇年代への懐かしさというのは確実にある。八〇年代があっけなく終わって、それでもまだ日なたの明るさのあった、そんな時代。ぼくもこの家に帰ってすぐのころ、外でぼんやりしながらポータブルラジオを聴いていたらGAOの「サヨナラ」が流れてきて、ああ、あの時代のことを忘れていたな…と、とても懐かしかった。

 過ぎてしまった時間を生き直すことは誰にもできない。それは時間が不可逆的で、人間の生も有限である以上、どうしようもないこと。でも、みんなどうしてるんだろうか。二〇年まえなんてのは、今とりたてて思い出すこともない、中途半端な過去にすぎないのか。

 ちなみに、はたさんが移住してきたのは道北の下川町。あっちも面白そうなところだ。稚内は五,六回行ったはずだけれど、行く用事もなくなってしまった。はじめて宗谷線に乗って稚内に行ったときのことが、昨日のことのようだ。途中、すごい美人がなにもない無人駅で降りていくので、すごく不思議な感じがしたのを憶えている。

 これから半年は冬を忘れていられるから、一か月の暮らしの中に、語学とか何とか、ぜーんぶ忘れる数日を持つといいんだろうな。おにぎりをもってリュック背負って、ずっと歩いてゆくとか。


GAO サヨナラ

 

 

What books should I read to improve my English~むかし買ったままの『薔薇の名前』なども読もう

豊崎 『薔薇の名前』はたしかに厚いし、語り口が現代風じゃなくて読みづらい。話の進み方も、いやがらせかと思うくらいかったるい。けど、根底にあるのは本物の教養です。エーコってトマス・アクィナスの研究者なんですけど、彼の中世哲学の造詣がにじむというより噴出した、これは傑作中の傑作ですね。

 ある意味で非常に凝った構成を持った作品でもありますよね。一九六八年に〈わたし〉は、ある修道院長が一九世紀にフランス語で書写復元した、一四世紀の修道僧アドソの手記を手に入れ、イタリア語に翻訳しようと思い立った。という冒頭に置かれた断り書きが記されたのは一九八〇年となっている。

 

 

百年の誤読 海外文学編

百年の誤読 海外文学編

 

 

 

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

 

 

 

The Name Of The Rose

The Name Of The Rose

 

 

 

Der Name Der Rose

Der Name Der Rose

 

 

Growth and Structure of the English Language (Classic Reprint)

Growth and Structure of the English Language (Classic Reprint)

 

 

 

  厄落とし(ん?)になにか一冊、ドバっと英語小説を読みたい気分のときがたまにあり、たとえばウンベルト・エーコ薔薇の名前』英訳が買ったままとなりの部屋にあったりするのだった。

 二つ目の大学時代のことをいつまでもつい昨日のことのように思っているのは、老化のきざしだったりするのだろう。英米文学の演習の一つが、毎週のゼミはやらず、各人が年度内に四冊の英語小説を読んで試験に答えるという方式で、その四冊というのは年度初めに個々の学生が申告するのだ。当然、申告される作品は各人ばらばらだ。先生はそれを読んでおくというから、今考えると大変な負担だ。

 ぼくは、二年次に、申告はしたがとてもそんな英語での読書はできず、履修放棄した。そのとき『薔薇の名前』をリストに挙げたら、先生が、「これはぼくも興味があるので読んでおきますよ」とおっしゃったのを憶えている。ただ、いっしょにイェスペルセンの英文法の専門書か何かを加えたら、「これはやめときましょうよ」と苦い顔をされたのが、いま思い出しても何ともおかしい。

 結局その単位は、次の年度に取得した。ただ、各人あまりにばらばらなものを申告するので、少しルールが変更されて、最初の一冊は全員ヴォネガットスローターハウス5』を読むこと、他の三冊も20世紀の英米小説に限る、と決められたのだった。それで、『薔薇の名前』はけっきょく読まないままになってしまった。

 しかし、あれは本当に役に立った。横文字の本が怖くなくなった。むろん、横文字の本もいろいろで、この全能感はまた何度も挫折するのだけれど、そのたびあのささやかな成功体験がよみがえって、いまだに横文字の本を読んでいられる。

 今また生まれ故郷にいて思うけれど、ここでは何百キロも離れた札幌にでも行かない限り、外国文学を原書で読むなどという教育をおこなっている学問所はない。意志の弱い子供だった自分には、そのことも不利に働いて、そうしたきっかけがたまたま与えられるまで、外国語の読書が身につかなかった。

 そこで、↓こんな動画を貼っておく。ポーやドイルの原書が難しければ、やさしく書き直したものがいくらでも出ている、それで読んでも少しも悪いことはないという、じつに役立つことが説かれている。英語の先生の一部が「今の若い人はどうせ本なんて読みませんから」と投げやりになるのはわからなくもないが、せめて一部の意欲のある若い人に対して、こういう道は開いておいてあげるべきだと思う。

 毎日おうちにいる身分でも、五月の連休が来ると思うと、気分が解放され、なんとなくほっとする。そのときに読んでもいい、『薔薇の名前』。


What books should I read to improve my English

 

ドナドナ~北海道にいて中央線沿線の文化を夢見る

 私は昭和二年の初夏、牛込鶴巻町の南越館といふ下宿屋からこの荻窪に引越してきた。その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引っ越していくことが流行のやうになってゐた。新宿郊外の中央線沿線方面には三流作家が移り、大森方面には流行作家が移つて行く。それが常識だと言ふ者がゐた。関東大震災がきつかけで、東京も広くなってゐると思ふやうになつた。ことに中央線は、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪など、御大典記念として小刻みに駅が出来たので、市民の散らばつて行く速度が出た。新開地での暮らしは気楽なやうに思はれた。荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いてゐても、近所の者が後指を指すやうなことはないと言ふ者がゐた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合のところである。それに私は大震災以前に、早稲田の文科の学生の頃、荻窪には何度か来て大体の地形や方角など知つてゐた。

 

荻窪風土記 (新潮文庫)

荻窪風土記 (新潮文庫)

 

  これ、文庫本で持ってるんだっけか。パソコン部屋の本の山のなかにあるのか。そんな気がするが、図書館で初版本を借りてきた。

 まだ全部読んでないが、だいぶ気分がパサパサと味気なく乾いているので、こんなのを読んで栄養を与えたいと思う。

 関東大震災のことがくわしく書いてあって、それで六年前、よそさまのブログで知ったのだったと思う。そのとき文庫本を買って読んだ? どうも記憶がはっきりしない。すいすい読めるので、あるいは一回読んだのかもしれない。

 東京には住んだことがなく、もう仕事で行くこともなくなってしまった。仕事で上京していたころも、新宿か渋谷かと言われれば、もう圧倒的に渋谷しか行かなかった。だから、新宿から中央線に乗って…という時間の過ごし方もしたことはない。…いや、高円寺とか吉祥寺は何回か行った記憶がある。ロシア語の本をどっさりおいている古本屋があるとか、今になって知っても、もうしようがない。

 中央線ジャズ、という言葉も、だからぼくは概念として知っているだけで、そういった街々のライヴハウスのたぐいは雑誌で名前を知っているだけだ。

 前に書いたけど、北海道に住んでいてどうにもならないのは、彼我の文化水準の差で、たとえば北海道のことをジャズ豊潤の地と呼んでくれる人があるのはうれしいけれど、それはお世辞半分に受け取るのが正しかろう。ましてこれが学問となると、よほど主体的に努力を継続しない限り、自分が学問だと思ってやっていることの世界がどんどんと狭くなってゆく。上の引用では「文学青年」となっているけれど、バンドマンでも、大学院生でも、多くの若い人が集まって貧乏も苦にせず切磋琢磨している東京のレベルは、やはりすさまじく高く見える。

 だからと言って不平を言っていてもはじまらないので、ここで出来ることを続ける以外にないのだけれど。たとえば外国語のレベルを維持する、読んでいない原書を少しでも読む、機会があれば論文を投稿する、やれることはいろいろある。それだけの努力をしたうえで彼我に差があれば、それはもう仕方がない。

 ぼくはドテラは着ないけれど、おととしの秋に買った安物ののびのびするジャケットは、普段着と割り切って足かけ三年、雪の日もみぞれの日も着て歩いた。傷むのが惜しくないので本当によく着て、じゅうぶんにもとを取った。でこの春は、通販のジャケット、うんと安いのを新調。これは来年春まで来たら十分だろう。


Betsuni Nanmo Klezmer, "Dona Dona" ベツニナンモクレズマー”ドナドナ”

田舎に生まれて洋書読みの達人になれるかどうかをめぐって

 しかし、経専の書庫とはべつに、研究室に未整理のままおかれていた「小川文庫」をみたとき、これを使えばなんとかやっていけるという感じがして、就任を承諾した。「小川文庫」は、いまでは経済学部の蔵書全体のなかに組み込まれてしまって、全貌をとらえることは困難だが、イギリス経済思想の主流を、マーカンティリズムからケンブリッジ学派まで、ふるいものはりっぱな装丁で、よくそろえていた。ロックの『統治論』や、リカードゥ派社会主義の大部分まで、ふくまれていたのである。一宮の小川という実業家から酒井学部長が買ったものだということで、学部長としての最大の功績というべきであろう。ただ、最近になって、偶然の機会に、伊東光晴がもっている『道徳感情論』初版に、小川文庫の蔵書票がはってあるのを発見した。伊東は、大倉財閥の人の個人蔵書を買ったのだというから、もとの小川文庫はもっと幅がひろくて、そのうちから、いわゆる経済学部むきのものだけが、名古屋にきたのかもしれない。

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

  水田教授が名古屋大学に着任する際のいきさつ。今では考えられないことだが、「いい気なもので、こちらが名古屋大学法経学部を審査するようなつもりでいた」という。今ほど研究者の予備軍の層が厚くない時代でもあったせいだろう。ともあれ、本があるかないかは文系研究者にとっては死活問題だ。いったんはその法経学部の図書館に足を踏み入れ、「これはだめだ」と思ったが、上記の「小川文庫」を見て気が変わったという、そんな話。昭和25年というから、大昔だ。

 ぼくがこの本を買ったのは、大学を出てお勤めしていた時期だったらしいことはぼんやり思い出すのだが、ということは、同じ書店で山口昌男『本の神話学』を買ったのと同じころだ。ぼくが本狂いになったのは比較的遅くて、山口氏のその本の影響が大きいことは自分でもわかっていたが、同時期にこんなものも読んでいて、それで洋書がぎっしりと並んだ大きな大学図書館へのあこがれが生じた気はたしかにする。

 そのあこがれを、十代のうちに持てれば、これは強い。山口氏の場合、あるいは柳瀬尚樹氏の場合、北海道のへき地からあんな洋書読みの達人が出たというのが、あり得ない奇跡のように思える、この感覚は内地の人にはちょっとわからないかもしれない。どこでそんな刺激を得るのか。

 ぼくの地元にも小さな本屋はあるけれど、そこで出会える本は本当に限られていた。国鉄で何十キロ先の街へ出て比較的大きな本屋を訪ねても、そこで洋書なり、洋書への入門書なりに出会えるとは必ずしも限らない。そもそも、翻訳書で読める外国文学を原書で読むということ自体、まわりで行われていない。まして、学術書を原典にさかのぼって調べるなど、高校生ぐらいの子供には、もう想像すらつかない。だから、美幌/網走の山口氏や根室の柳瀬氏がああした洋書読みの道へすんなり入って行ったというのが、ぼくにはそんなにたやすいことだったとは思えないのだ。

 地方でも、資産家が洋書をいっぱい持っている話はむかしからあるにはあって、上の「小川文庫」はその例だ。

 あんまりむかしを振り返っても仕方ないが、明け方に見る夢はみんな学生だったころのことをぐるぐる回っている夢ばかりだ。今朝の夢では三つの大学に合格し、入学したらそこは高校のようなところで、そこを卒業して就職列車で各駅に一人ずつおろされてゆくのだ。降りるはずの駅を通り過ぎた、しまった…というところで目が覚めた。

 

 


Why Is The Wealth of Nations So Important? Adam Smith and Classical Economics (2010)

 

 

グラスゴウ大学講義

グラスゴウ大学講義

 

 

 

The Correspondence of Adam Smith (Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith)

The Correspondence of Adam Smith (Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith)

 
Lectures on Jurisprudence (The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith)

Lectures on Jurisprudence (The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith)