俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

クールジャパンという背理~自分を「かっこいい」と言ってる時点でかっこよくないよという指摘

 That changed with METI's Cool Japan project in 2010, which attempted to promote Japanese pop culture overseas. Fukasawa attributes the failure of this scheme to the government's lack of self-awarenes: Once you refer to yourself as being "cool," you aren't.

 『ジャパン・タイムズ』日曜版、4月2日付"Media Mix"欄は"What, if anything, makes Japan unique?"。例によって例の如くなんだろうけど、近年のTVでの日本礼賛番組の多さを俎上に挙げたもの。主語のthatは「近年までそうした番組はなく、あったとしても、TBSの『ここがヘンだよ日本人』のように、疑念をのべるものぐらいだった」ことを指す。それが経済産業省のクールジャパン戦略で変わってきたけれど、自分のことを「かっこいい」と言っている時点でかっこよくないんじゃないか、と日本人の批評家の意見を紹介している。

 ぼくはこの問題にさして切実な関心があるほうではないから深入りせずに置くが、日本を面白いと思って訪れる外国人のなかにだって、日本的なone-sided kindnessを不快に思う人もいる。自分の美点を過度に熱く言い立てて無理強いしないことこそがcoolということなんじゃないか。NHK-BSの『クール・ジャパン』はその種の番組の草分けだけれど、「クールかノット・クールか」が必ず問われ、まだしも自己批評の眼を備えているかも知れない。

 語学徒生活を一か月延長、とここに書いたはいいが、それですっかり安心して、放心しているうちにもう7日。今朝は未明から起きて、慣れないエクセルを操作して、そのあとネットのラジオのクラシック局をつけっぱなしにして仮眠。10時半ごろ起きて、老母を買い物に連れていった。で、午後、『ジャパン・タイムズ』。『TIME』のほうはひと冬分たまってしまった。他の勉強をしながらだとキツい。でも、一応目を通すのだ。

 単語、少し挙げておく。

 pandemonium 阿鼻叫喚、修羅場, quandary 板挟み,  reservation 疑念、留保, dud 不発弾、外れ, char イワナ, quotient 比率, banter ひやかし、からかい, abattoir 食肉処理場, unconscionable 道義的に許せない

 パソコン、今のうちに次はどんなのがいいかいろいろ調べているが、調べているうちに、ええい思い切ってMacbook買っちゃえ、とならないように、ブレーキを踏みつつ。

 ロシア語の単語帳も見なければならず、まああせらず。秋に買い込んだ大学ノートが10冊以上残ってしまった。


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枯れ野のなかの書庫~九階にある研究室から東京の街を見おろしながら、とさる教授はいう

 いくつかの偶然が重なって、私は今九階にある研究室から海の方向に東京の街を見おろしながら本を読んでいる。そして、自分なりに充分に楽しんでいる。本来そう言えばすんでしまうはずのことが、しかしながら、今ではそう説明するだけではすまなくなっている。問題は、本を楽しんでいる自分を見つめている私の中のもうひとつの眼の存在だ。

 

文化と精読―新しい文学入門

文化と精読―新しい文学入門

 

 

  これは出てからこんなに経つのか。十五年近く前だ。

 自分がそういう問題意識を十全に共有していたといい募るつもりはない。しかし、2000年代にぼくが書いたわずかな数の論文は、ぜんぶこれに方向づけられている。

 ぼくが英文学を体系的に学んだことがあるとは言えないので、内容を咀嚼できた自信はまったくない。が、冒頭のここだけでも、問題提起としてはもうじゅうぶんに強烈だった。長々引用するつもりはないけれど、むかしはこんなことは考える必要がなかったことを振り返りつつ、次のパラグラフはこう始まる。

それに、仕事柄、本を読むという行為を自己充足的な快楽の雰囲気のうちに解消させて、それで能事終われりとするわけにはいかない理由がある。大学という研究と教育のための制度の中にいる以上は、教師として学生に向かうということと文学を読む自分自身を対象化するということを義務として引き受けねばならないのであって、文学は教えられないという姿勢を誇示するわけにはいかないからだ。かつてはそのように考える必要などなかったのかもしれないが、今ではもう純粋に自足した享受者をきどるという生き方は通用しないであろう。

 いや、だからそうなんだって。一部の特権的な大先生は自己充足的な享受者であることを誇示しても説得力があるだろうけれど、それ未満の「学問的下級霊」(©村上春樹)がこの世知辛いご時世にそのまねをしたところで、その先には果てしのない縮小再生産のプロセスが待っているだけなんじゃないか。 

 …というか、この本を今日書庫から持ってきたのは、冒頭の「九階にある研究室」というところがうらやましくなったからだ。前にも書いたとおり、今日び、広壮なキャンパスのなかに居室を与えられても、そこでじっくり研究ができるなどという保証は今やどこにもない。もう大学に籍を置くことのない自分にとっては「研究室」とは「心のありよう state of mind」であって、物理的な空間としては、本と、机と、パソコンが置ける小さな部屋が、そして静かな未明の数時間があればそれでよい、それは本当にそう思っている。それでもこの時期、あちこちの研究室の引っ越しの話がきこえてくると、やはり、ちょっとうらやましい。七年ほどこの本を納めてあった書庫は、雪がとけて枯れ野のようになった空き地にポツンとあって、それでもぼくの数少ない知的資産だ。

 数年がかりのしごとは、ひょっとして今が山なのかもしれないが、まあゆっくりいこう。今さらながら、紙の資料を見つつ二つ以上のソフトウエアを小さな画面で操作するのはひどく面倒で、マルチディスプレイだとはかどる気がする。で、Surface Pro 3のドッキング・ステーション、買うかどうか検討など。おもちゃがわりに安価な中古マックブックを買う計画は、見合わせ。


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きみ、労働価値説は損だよ~あの早春はガルブレイスを読んでいた

[…]いつからはじまったのかしらないが、一橋会では毎年、教官に出題と審査を依頼して、三科(予科、専門部、本科)の学生から懸賞論文を募集していた。三科の学生といっても、水準からすれば、実質的には学部学生のためのものであって、ぼくが学部一年のときは、高島、山田両助教授がそれぞれ「経済学の政治的性格」と「競争価格と公定価格」という題をだした。ぼくがヴェーバーのものを少し集中的に読んだのは、そのためであったらしい。ぼくは結局書けないで、前者に石川滋、後者に長沢惟恭が入選した。石川はぐうぜんにあった山田雄三と論文の内容について話しあったあと、新聞部室にきて、「雄ちゃん、聚楽で晩飯おごってくれて、『君、労働価値論は損だよ』ていうんだ、いい教師だな」と、いくらかの皮肉をこめて語っていた[…]

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

  ここもやけに印象に残る一節で、労働価値論はしょせんスコラ的な哲学議論なので、論文の題材としては損だ、とプロの経済学者が言った例として、ぼくの脳裏に焼き付いてしまった。

 この本を買ったのは、サラリーマン時代だと思うけれど、この本をその後すり切れるほど読むことになったのは、こんな学問的香気にあふれた学生生活を送れなかった代償行為としてだったのは、もうはっきりしている。そしてその後大学に入り直したとき、もう専攻を替えて、経済学とは縁を切ったはずが、水田教授がこの本で論じているような社会思想史や経済学史の本は、その後も思い出したように読みかじるのがやめられないのであった。

 二度目の大学生になったとき、語学をやったのは何度も書いているけれど、その時も最初は、経済の学生だった頃の素養がぜんぜん捨てきれず、古本屋で投げ売りされていたガルブレイスの選集か何かの端本をかばんに詰めて持って行き、最初に入ったアパートで読んでいた。そうすると、ガルブレイスの出身国であるカナダでは、経済的な必要が生じない限り、農民は結婚をしない傾向がある、だから、いい歳をした兄弟姉妹が同じ家にいて農作業をしている、といったことが書かれていた。入学してすぐ読まされたある文学作品がまさにそんなお話だったので、たいそう驚いたのだった。もう少し世渡りの知恵があれば、草案かレジュメを書いて教授のところへ持って行き、紀要論文か何かに使ってください、と売り込みをしたかもしれない。

 いろんなものが、どんどん遠ざかってゆく。しかしとりあえずまた春が巡りきて、毎日、笑ってご飯を食べている。どこか図書館にあるんじゃないか、あのガルブレイス。ぜんぜんあせることはないので、またどこかへ行ったら。

 ↓これじゃないか。

 

ガルブレイスわが人生を語る

ガルブレイスわが人生を語る

 

 

 

ガルブレイス著作集〈8〉ある自由主義者の肖像 (1980年)

ガルブレイス著作集〈8〉ある自由主義者の肖像 (1980年)

 


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昭和二十五年四月の着任のお話

 さいわいに大学の昇格や増設が、全国で進行中だったので、そのひとつであった北海道大学からおそらく新川士郎[…]をつうじて、高島さんに依頼があり、北海道という土地がすきだったぼくは、いくつもりになった。ところが、ここでまた杉本栄一があらわれる。「だめだよ、そんなところにいったら、いなかものになる」というのである。北大だけでなく、地方の大学にたいしてたいへん失礼ないいかたではあるが、日本における研究・教育条件の地域格差は、いまでも否定できないし、とくにヨーロッパ思想史の研究にとって、図書館の貧困は致命的であった。

 杉本にそういわれてまもなく、図書館の書庫(メンガー文庫)で、早川泰正にあった。早川は経済研究所の助手だったが、研究所の事情で、やはり転出しなければならなかったのである。かれは札幌出身だったから、北大の話をすると、それじゃいくか、ということになり、経済原論担当の助教授として赴任した。ずっとあとになって、学術会議で新川にこのいきさつをはなしたら、「あなたが北大にきていたら、あのアダム・スミス研究はうまれなかったでしょうね」といわれた。あるいはそうかもしれないとおもうほど、北海道の条件はわるかった。

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

  ぼくは生粋の北海道人で、自分の生まれ故郷である北海道がいろんな面で本州からながめて水準の劣った田舎だと思われていることを、ある時期までまったく知らなかった。というか、前にも書いたような気がするが、北海道人は北海道以外の土地を日本だと思っていないふしがあって、かくいう自分も、どっちかと言えばそうなのである。

 この本には、学生時代の(戦前の)北海道旅行のことが好意的に書かれたりしていて、本人が言うとおり、著者は北海道という土地のことを決して嫌いではないと思う。その著者にして、「北海道の条件はわるかった」と書かずにはおれなかった、そのいきさつ。

 ぼくは著者の母校である一橋大学の図書館というのは利用したことがないので、まあ何とも言えないが、現在の時点でも、北大の文系図書の蔵書は、東京の大学に比べて劣っているのだろうか。昨日引いたエリアーデはもとは辺境の地ルーマニアの人で、他人がすでに行っている指摘を再度するという失態を犯さないために、ヨーロッパの大きな大学の図書館を利用しないうちは著書を刊行しない、といったことを戦後すぐの日記に書いている。上に書かれている「北海道の条件はわるかった」という事態は、それとよく似たようなことなのだろうか。

 なんにせよ、この本は本当に繰り返して読んだ。二年前の今ごろのエントリーでも触れたけれど、この人は名古屋大学に赴任し、研究室にベッドを持ち込んで寝泊まりするようになる。

昭和二十五年四月に着任して、当時は桜山にあった名古屋経済専門学校の校舎を使って、経済学史の講義をはじめたのだが、戦災都市の公務員住宅は建設がまにあわず、しばらく桜鳴寮という学生寮の一室で暮らしたのち、研究室にベッドをもちこんだ。ぼくの研究室は、ほそい道をへだててて、学生寮の南端に面していたから、そこの住人には、ぼくが夜ねているかおきているかは、すぐわかるのであった。もっとも、当時はそういうことを意識していたわけではなく、その住人のひとりであった大江志乃夫[…]が、深夜にぼくの研究室の燈火をみて、対抗意識をかきたてられたという話をきいたのは、かなりあとのことである。

 この部分。大江志乃夫教授がまだ学生だったという時代の、着任したばかりの若い助教授へのこの燃えるような対抗意識を、まるで自分のことのように感ずる時期があった。

 「着任」というのがキーワードだろうか。この時期、SNSでは「○○大学に着任しました」というあいさつが飛び交っているらしい。ぼくはもはやそういう場所からずっと遠いところにいて、むかしのこんな話を読み返している。


Purpose and Advantages of a Docking Station

 

Truth~長いこと捜しあぐねていた『エリアーデ日記』の一節を見つけた夜

[…]私は辺境文化に属している。そこではディレッタンティズムと即興は致命的であるといっていい。私は、劣等感に満ち、絶えず《今現在の》情報を持っていないのではないかという恐怖の下で、学者生活に入った。そのことを自覚してからというもの、その問題について書かれたほとんど全てのものを読んだと確信できないうちは原稿を印刷屋に送れなくなった。ずっと以前に知られていることを《発見》し、他人によってなされた指摘をくり返すことへの恐怖、特にルーマニアの図書館には欠けているバック・ナンバー集の内に埋もれている基本的文献を知らないでいることへの怖さ。このためにヨーロッパの大きな図書館で夏の一部を過ごさないうちは敢てテキストを公けにしないで来たのである。

 

  これはいつ読んだのかというと、二度目の大学生活のころではないだろうか。試験期間以外は閑散としている図書館がその頃のぼくの勉強部屋兼遊び場で、語学の自主勉強のあいまに、ちょっと薄暗い開架の書棚の間をさまよい、こんな本を引き抜いては読みふけっていた。

 どうもその頃、この部分を読んでいた、そしてきわめて強い印象を受けたのじゃなかっただろうか。本当にずっとあとになって、この個所を読みたいがばかりに、出版社に直接電話して本を取り寄せた(アマゾンはすでにあったはずなのに、なぜそんなことをしたのかは、よく思い出せない)。しかし、その時はこの個所をついに探せず、研究報告の話のマクラに使おうと思っていたのが使えずに終わり、なんだかよくわからない発表になってしまったのだった。

 ぼくは東京の大学で研究したことがないから、この気持ちは痛いほどよくわかるし、同じようなへまを演じた経験の気まずさは、生涯消えない。ぼくも本当に、世界初の発見をしたつもりだった。が、学問の世界は広く、深い。北海道の大学の院生だったぼくごときが思いつくことは、とうにヨーロッパかアメリカの誰かが字にしているのだ。そのことを真剣に伝えようとした報告だったのだけれど、これを引用できなかったばかりに、論点がボケボケになり、ちょっと違う議論になってしまった。これ自体も、いま思い出すとなんだか気まずい。

 メモ代わりに引いておく。

 ぼくのやっていること、ぼくのたまに書くもの、いつか出るかもしれない本、世間の基準からすれば小さな小さなしごとにすぎない。だから、あまり気負ってもしょうがないのだけれど、T-スクエアの「Truth」が、心の中で流れっぱなしだ。


TRUTH (LIVE) T-SQUARE

 

 

 

Text Counter Text: Rereadings in Russian Literary History

Text Counter Text: Rereadings in Russian Literary History

 

 

 

南部訛りの英語はぜんぜんわからないらしいということについて

 だれもが「サザン・ドロール」で話していた。曖昧に溶けたような甘い母音を、ゆったりとした口調でひきずりながら鼻声でしゃべる。二人称の「ユー」に単数複数の区別が存在する(単数はふつうのyouで複数はy’all)。それが南部訛りで、そうしたアクセントはそれまでに聞いたことがなかった。もちろん教師は、半数は北部出身だし、南部出身でも標準化されたマスメディア的アクセントで話す人が多かったから、話がわからないということはない。しかし学生や町のおじさんおばさんには━━白人と黒人を問わず━━何をいっているのか実にまったくわからない人がいた。仕方がないので、こちらも曖昧な顔で、むにゃむにゃと相槌を打ってごまかすことばかりが上達した。もちろんあらゆる言葉は、慣れれば必ずわかるようになる。人間は誰でもどんな言葉でも覚えることができる。わからないのは十分に慣れるところまでゆかないためと、一種の反射神経の問題であり、どちらも自分で克服するしかなかった。これについては、残念ながら、いまもまだあまり進歩がない。 

 

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

 

  ぼくはアメリカの南部はおろか、アメリカ自体行ったことがないので、へえと思いながら読むだけなのだけれど。二人称の複数ということはこれを読んでから意識するようになったが、標準的な英語でも、二人称の複数形としてyou guysと言うことが多いのに気づいたりした。

 CNNを見ていても、ぜんぜんわからない英語をしゃべる人がときどき登場する気がする。録画してあった場合は、たまにそういう部分だけもう一度観たりということもある。ウラを返せば、たいていの場合は標準的な発音でしゃべってくれる記者やコメンテーターが多くて、だから見ていてもわかる。

 語彙がわからないから、という場合もあろう。こないだもCNNの新番組の予告でtantamount to treason「反逆罪に等しい」といった言い回しが使われれていた。subterfuge「口実」などという語もたまに耳にする。potable waterは「飲料水」。けっしてportable じゃない。poultry「鶏肉類」とpaltry「つまらない」も似ていて、あれっとなる。clandestine「人目につかない」というのも、けっして特殊な語ではない。こうした語彙は、絶えず読んでおぎなっていないと、たちまち錆びつく。ここから聴いてもわからない、ということが生じうる。

 ただ、上で言われている南部人の英語のわからなさは、そんなレベルじゃないだろう。公式のジャーナリズムやアカデミズムの英語とぜんぜん次元の違う英語というものが、現地で生活してみると、どうもあるみたいだ。

 二度目の学部生時代、アメリカ研究の集中講義を取ったけれど、そこで見せられた、むかしの南部の黒人労働者たちの話している英語は、やはりまったくわからなかった。その時間の出席票にそのことを書いたら、東京からおいでになった教授が、「まあ、私だって聴き取れませんから」と苦笑していた。

 これは今後の課題というか、アメリカに長期滞在する予定があるわけでもないから、今後も課題にならないままで終わるだろう。そのことは残念である反面、明るいうちからおうちで風呂につかっている身としては、もうきつい語学的冒険はいいや、と安堵する面もある。買いためた映画のDVDを観ることは今後もあるので、そこで疑似的にそういう経験をするだろうけど。

 もしこんどデスクトップのパソコンを買うとしたら、CPUはCore i3で十分ではないかと思いつつ、こういう動画を。かなり早口だけれど。


Intel i5 6400 vs. i3 6100

Fly over the Horizon~「先生のバカ話がアホラシクテ」と真顔で言える学生

 社会科学の本でも、一般の本でも、まず断片を自分の目で読み取ることが必要です。最初に断片、それからだんだんにその本の全体を深く理解し、再解釈してゆくにも、ある断片がものをいって、それをテコにして再解釈が可能になる。

 ところが、断片を自分の目で読むことは一つの賭けです。その賭けを、もともと日本の社会がしにくくしていて、教育がそれをいっそう助長する。自分の眼で本を読まないように本を読む訓練をする。そういうことが否定できないと思うのです。社会科学を離れて一般の本がそう。定まった結論なり「感想」に向かって本を読む。そういう方法、モード、習慣が、社会科学の本にまで持ち込まれて、ここでいっそう[…]

 

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

 

  ここなんかは賛成してもよいのだけれど、そうやって自分の眼で断片を読むことによって、一定の自己の読みの流儀を形成してゆく、といった時間のかかることが誰にでもできるわけではなくて、下手にそれをやったあげく「我流におちいっている」「独りよがりを言うな」と非難されることもある。正直に自己の考えを披露して、かえって叱られるのがわれわれの社会だ。大学教授にこう言われたからといって真正直に実践に移そうなどという人は、多分たいへん少ない。

 自分の眼で読むなんて、そんなこと、中学や高校で教えられたこともない。課題図書のレポートは紋切り型でさっさと済ませて、浮いた時間は自由に過ごしたい。いわゆるコピペがなくならない理由はそこにあるだろうし、ここに、本音とタテマエという日本的原理がよこたわっている。

 どなたかが言っていた通り、独裁国家で「真実を語りましょう」と宣伝カーで宣伝して回っても、誰も真に受けない。誰が言っていたかというと、思い出した、中島義道さんだ。

教師に向かって「ぜんぜん聞いていませんでした」とか「眠っていました」と真顔で語ることは、これまでの生涯でただの一度も教育されてこなかった。「先生のバカ話がアホラシクテ」と━━ふてくされてではなく━━真顔で語ることは想像だにできないのである。

 そう語ったら最後、教師がどんなに自分を虐待するかを知っているからである。ゲシュタポ特高警察が目を光らせる国で「真実を語りましょう」と叫んでも、だれも恐ろしくてその手には乗らないのと似ている。

 

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

 

  まったく恐ろしいことに、自分もまた、第二外国語が何の役に立つのか、と歯向かってきた運動部の学生を、頭ごなしに叱りつけて一件落着にしてしまった苦い思い出がある。たいていの学生がもっと洗練された・あくどいまでの面従腹背をやってのけるなかに、たまたまそれができない愚直な正直者がいたのだ。あの子は、先輩や周りの大人が陰で言っていることを素直に口にしたに過ぎない。あの時こそ、若い人を大きく成長させるチャンスだったのに。

 四月になったとたんに陽光まぶしく、年度のはじめらしい一日になった。といっても、おうちにいる身には関係ないのだけれど。早いところは、年度が替わらぬ昨日のうちにすでに入学式という。

 『世界の快適音楽セレクション』で流れていたブラジルのバンド、恥ずかしいことに今まで知らなかった。たった三人で、このグルーヴ。この曲をやっている人たちと知り、納得。「クロスオーバー・イレブン」の、あの曲。大収穫だった。


Azymuth - Fly over the Horizon (Vôo Sobre O Horizonte)