愛は風まかせ~少年老い易く、マクロ経済学成り難し
ウェストファリア条約が1648年だということを知らないと、国際政治の専門家への入場券はもらえない。外交官になったとしてもダメ。インテリジェンスの世界でも、まず必ず雑談があります。中国問題の専門家と言ったら、中国の人口を聞かれる。そこで間違えると、もう絶対に話を聞いてもらえません。そういうチェックがあるんです。将来役に立つことだから、さっそくもう一回高校の教科書を買ってきて、山川出版社の問題集でやり直しましょうと言いました。そして毎年センター試験の問題はきちんとやって、常に9割はキープしておく。そうじゃないと早稲田や慶應の学生として恥ずかしいよ、という話をしたら[…]
佐藤優の発言。これはもうその通りで、早稲田や慶應に限らない。地方大学の学生こそ、こうしたことを肝に銘ずべきだと思う。
これは東京でもそうなのかもしれないが、田舎の学生同士の間では、往々にして、世の中学問がすべてじゃない、といった俗耳に入りやすい意見が交わされやすい。それはそうなので、世間に出たらそのことはいやと言うほど思い知らされるから心配する必要はない。そのとき、世渡りの経験が乏しく世間知らずなのは仕方ないとして、せっかく通った高校・大学時代に当然学んでおくべき「役立たずの学問」すらぜんぜん身についていない、というのは本当に寂しいものだ。たまに書店へ行って買ってくる本が、わかりそうで分らない悔しさ。
経済学科というところの劣等生だった自分が、何の因果か経済・経営系の学科の学生に語学を教えることになったとき、運動部の学生と対決的になる場面があり、ひとりが「第二外国語とか、ミクロ経済学とか、何の役に立つんや!」と、まるで不当な損害をこうむったかのように食ってかかってきたことがあった。あそこを頭ごなしでなく乗り越えることができていれば、ぼくももう少し長く、大学という職場に居場所があったかもしれない。
およそ知的な風貌をしていない人が、ここぞというところで意外な学識を発揮する、ということは、多少人生経験をふむと何回か経験する。ある保険会社の支店長は、ふだんこそまるでイノシシがスーツを着たような風体だったが、外交員の一人が、「株をやっているお客さんから相談を持ち掛けられるが、まるでわからない。今週アメリカで景気見通しが発表になるというけど、なぜアメリカの景気指標が日本の株に関係あるんですか」と頭を抱えて帰って来た時、ホワイトボードに図を書いて、マクロ経済の手ほどきをしていた。たまたまその現場を見て、本当に驚き、人の上に立つ人というのはこういうものかという気がした。IS-LMの原理が呑みこめてないと、ああ当意即妙にレクチャーできないと思った。上掲の歴史の話とはややズレるし、遠い昔の話だけれど、たまに思い出す。
クルマ屋さんも、住宅屋さんも、それだけじゃない、経済新聞くらい読んで、顧客がそういう話題をふったときは答えられる、と言う人は多いんじゃないか。銀座のバーのママさんが日経新聞を読んでる話は、どこできいたのかなあ。
それはそうと、iTunesStoreに伊藤つかさ「少女人形」がないのでがっかりしているところだ。
愛は風まかせ/スプライトcmソング # 五十嵐浩晃(CD音源)
三上隆三『経済の博物誌』の懐かしさ~伊藤つかさなんて今どうしているのか
「言語をもって単に事実伝達の手段と見ず、言語表現そのものが人間の事実である」とは鴻儒・吉川幸次郎の名言である。これを彼は独力で認識・形成し、それまでの広い見聞からも、それは自分の創造するところと確信していた。たまたま本居宣長の著作を読んでいるとき、宣長がすでに同内容のことをのべているのを発見し、落胆したという。
本当にそういうことがあるのは、研究ということを五年、十年やったことのある人なら、たいてい知っているだろう。独創的な発見をした、と興奮して学会報告まで申し込み、その発表の前夜、たまたま読んでいた新着の原書で、そのことが述べられていたりすると、あいたたたたとなり、もう当日なんかしどろもどろの弁明に終始したりする。
それにしてもこれは本当に面白い本で、今、類書があまりない。今の人は小ネタなどというらしいが、雑学・うんちくが満載。著者は経済学史がご専門か。そうなるとけっして経済のことだけ知っていれば事足りるというわけにはいかず、歴史一般や自国・他国の言語文化へもそうとう通じていないと研究が成り立たないだろう。この本はそのコアな本業ではなく、いわゆる〈余滴〉なんだろうけれど、一回読んで終わりにできるほど軽くない。
今日はもう一カ所引いておこう。
経済学はもちろんのこと、およそ学問といわれるものを身につけるための基本条件が外国語の習得にあるというところから、それだけに業者は関係図書の売上げ部数をのばすべく、『〇語に強くなる本』『涙なしの〇語』『〇語x週間』『単語百で〇語自由自在』等々、要するに苦労せずに楽しみながら外国語習得が可能ということを言外に匂わせるタイトル、キャッチ・フレーズの創出に頭を絞り、しのぎを削るわけである。だが、労なくして語学の上達なし、は不易の真理であろう。
ぼくが最初に入った大学でも、入学してすぐ、上級生に案内されて何人かの先生の研究室訪問をした時、教授の一人が似たようなことを言った。細かい点は忘れたが、とにかく英語を伸ばしなさい、ということだった。「英語ができん奴は、ドイツ語なんぞもできゃせんよ」という、その先生の口調はやけにはっきり覚えている。2,3年生になったときも別の教授が、大学院進学希望者を念頭に、学生は数学はちょっとやれば比較的すぐ伸びるが、英語で苦労する者が多い、と言っていたはずだ。
いや、もう忘れちまったことの方が多かったりもする。貨幣数量説なんて、この本を読んでおぼろげながら思い出す始末。
いやあ、懐かしいが、同級生はみんな役職者とかになってるんだろうなあ。
政治経済学という単位も昔取ったけど、あれはなんで「政治」経済学だったのかということについて
economy 3 b(1): the natural ordering or system of operation of the processses of anabolism and catabolism in living bodies
<the economy of the cell>
(2): the body of an animal or plant as an organized whole
もうこのあたりはっきり憶えていないのだが、economy 「経済」の原義について。
economyの語源がギリシャ語のoikos「イエ」とnomos「やりくり」であることはまあ常識。それを日本語に訳すにあたって「経世済民」の四字熟語を二字に切り詰めた「経済」という和製漢語がつくられて、中国語にも逆輸出されたのも周知のとおり。このあたりは大学一年で習ったか、あるいは高校三年あたりから知っていたかもしれない。
ぼくが驚いたのは、economyが上掲のような生物のからだを指すこと。3b(1)のような生体の「同化」や「異化」のプロセスをeconomyと呼ぶというのは、派生的な語義なのかもしれない。しかし、むかし「経済学」economicsという言葉の誕生以前に、国の財や資源のやりくりを研究する意味で[政治経済」political economyという語が使われていたのは、まさに上記のような生物体のeconomyではなく一国のeconomyのことなんだ、とことさらに区別する意味があった…と習ったはずなんだが、それがなんの本に書いてあったのかが、今となっては捜しきれないんだよ。
大学二年で履修した政治経済学は、要するにマルクス経済学の原論だった。けれど、それが当時はなぜなのかわからなかった。「政治」とつくのは政治的立場の明確なマル経が教えられていたからなのかと思ったのは早計で、ケネーやアダム・スミス、ミル、リカードといった経済学者たちのやっていたことがeconomicsではなくpolitical economyだったからで、それを集大成し完成させたのがマルクスだった、ということにすぎないんだろう。
…とかえらそーになにも見ないで書いているけど、なにせ内田義彦先生の経済学史をはるか昔に売り払ってしまって、それを買い直そうと思ったときあんがい簡単に買いなおせなかった。でもって、政治経済とは要するに古典派経済学のことで、労働価値説の経済学のことなんだろうという理解のまんま今日まで来ている。
political economy ▶《dated》economics as a branch of knowledge or academic discipline:
♦Early American writers on political economy racted negatively to Ricardo's theory of rent.
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というかリーダーズを引いたら「政治経済学;《19世紀の》経済学」とあって、これで安心しておこう。もう昔のことだけれど、むしょうに懐かしい。あの当時、語学さえできたらなあ。
やっぱりあれは大塚久雄の何かだったかなあ。以下の本はとても面白いけど、このことは特に書いてないみたいだ。
How To Beef Up Your Surface Pro 3
Horse to the Water~古い英語の数詞および冬の終わりのアナログLPなど
He was eight-and-twenty years old; he had a short, slight, well-made figure.
- 作者: Henry James
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ドイツ語では数を言うとき一のけたと十のけたをひっくり返して言う━高校生のとき、人気のあった現代国語の先生が、何かのついでにそんな話をした。ことばのきまりというものがいかにことばごとにまちまちであるかということの、高校生は知らないが、大学を出てきた先生なら知っている、そんな手近な例として。
ずっとあとになって、大学院生のころ誰かと話をしていて、ああ、それは英語でもそうなんですよね、という話になったのだった。なんでも、図書館でシェイクスピアのヴィデオか何かを見たら、そういうセリフが出てきたとか、そんなことだったっけ。
枕元に出しっぱなしのこの本は、読んでもいいが、ロシア語の問題集のおさらいもまだ終わらないし、英語週刊誌も溜まってしまったしなあ、と思いつつ、最初の数ページを読んでいたのだった。そしたら、上記のような個所。もう一カ所、一の位と十の位が入れ替わった個所があるが、まあそれはいいとして。
ドイツ語はそもそもやっている余裕はないけれど、ヘンリー・ジェイムズもずいぶん買ったきり読んでないなあ、とため息が出る。勤めていたころ研究費で以下のものを買ったけど、けっきょく読まずに、研究室をたたむとき返納したはずだ。D・ロッジは読みやすい英語を書く人で、これはぜひ読みたかった気が今でもする。札幌へ出た時でも、もし店頭にあったら買ってしまいそうだが、もう札幌の書店の洋書コーナーには、この程度のものすら期待はできない。
今見ると出版年が12年前なので、その頃店頭に並べてあったのを、校費で買ったのだろう。勤めていたころは、言語と文学の専門家のような顔をして、その実こんなものすら読むひまがなかった、それで優雅な読書人ぶったって知れてらあ。
一歩ずつ行こう。まず『ジャパン・タイムズ』日曜版を週遅れにならぬよう読んでしまう。そして5週くらいたまった英語週刊誌を、一応20ページくらいずつ読んで片付ける。新年度の活動も並行して考える。
廊下を隔てて私設研究室(=四畳半)だが、この冬はそちらからSurfaceを持ってきてはこっちの寝室で書き物をする日が続いた。まだ寒く、本州の人から見たら真冬のような気温だが、引き戸を開け放して、私設研究室のステレオを鳴らして、こちらで聴いている。憂歌団のライヴ。マイルス『クールの誕生』、そのほかいろいろ。80年代の終わり、CDの出初めに、安くなった中古LPを買いあさった。いい時代だったんだあの頃。
George Harrison Horse to the Water
ザ・エン歌~「洋書を一冊読み切る」体験について相変わらずあれこれ
では、「一冊を読み切る」ために、最初の1冊にはどのような本を選べばいいのだろうか。ポイントはずばり、以下の3つ。「内容を知っている本」「薄い本」「簡単な本」である。
これは大事なことで、すでに内容を知っている本を読んで外国語の読書入門をする、というのはほとんど王道と言っていいくらいのものだ。だから、誰でも内容を知っている有名な文学作品をやさしく書き改めたものを読む、というのは少しも悪いことではない。
たとえば、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』は、英文科の卒論の定番と言っていい超有名作品だけれど、英語自体は初心者にはちょっときつい。いや、少し身を入れれば、このレベルは英文学の中でもそんなに難しい部類じゃないが、若い人が英語学習の道具として使うなら、映画版のノヴェライズ本だって悪いことはない。「多読」のための「多読」はレベル向上につながらない、という批判は一理あって、その通りなのだが、この種の通俗本を読んでいるうち、おのずからもっと本格的なものを読みたくなるんじゃないか。
- 作者: Leonore Fleischer,Mary Wollstonecraft Shelley
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いや、『フランケンシュタイン』映画版のノヴェライズ本、というのも古い話で、あの映画が、もう二十数年前なんだね。ノヴェライズ本は、たしかに持ってて、ひょっとしたら資料的価値もあるかぐらいに思って取っておいてあったつもりで、今これを書くため探したのだが、置いてあった部屋にない。なので、あくまで「だろう」という話なのではあるけれど、ノヴェライズ本は易しい。それで『フランケンシュタイン』を読んだつもりになるのはNGだが、これだって若い人が読み切ればかなりの自信になるはずだ。
高校生の時代、というのが、自分史(いやな言葉だね)のなかでは暗黒時代をなしていて、こうしたペイパーバックどころか、田舎の本屋には南雲堂の英和対訳シリーズすらおいてなかった。自らそういうものを探し求めてどこかに行くという機会もなかった。
外国語を読むというのも慣れの側面がけっこう大きい。ふだんからまとまった量の英文を読む習慣のない人が、年数回の英語の有名テストのたぐいを受けに行って、読解問題の量に圧倒されるというのはまったく当然のことだ。入試の英語となればなおさらだ。日ごろから英語を読んでいる人は、もう圧倒的に強い。
そしてまとまった量の英文を読めるかどうかは、そんなにたいしたことから決まるわけじゃない。高校を出るか出ないくらいでは、本当に英文学をバリバリ読めるような人はほんの少数で、あとは上記のような通俗的なペイパーバックを数冊、部分的にでも読んだことがあるか、というくらいの差しかないと思われる。南雲堂の対訳本を5,6冊読んでいれば、もうたいしたもんだろう。
そしてこれは、試験の有利不利だけですまず、その後もずっとついて回る。たとえば、国際政治学をやる、生態学や人類学をやる、物理や化学をやる、細菌学や伝染病の研究者になる、どの場合でも、英語の本が怖くないという自然な自信は(間違えないでほしい、けっして十分条件ではないのだが)、大きな優位になる。
だから、都会の大学を出て田舎に赴任する英語の先生は、なるべく自分でもこういうものを読む習慣を身につけておいて、それを若い人に伝えることをしてくれたらいいと思う。力説する必要はないから、ほのめかすぐらいでもいい。たまに教室に本の現物を持ってきて「見せびらかす」のでもいい。関心のある高校生は、今なら自分で調べて本を取り寄せるだろう。
この問題はなかなか言葉にできないのだが、周囲に一人でもそういう大人がいれば、ああそういうことが実際に可能なのか、と目を開かれる若い人は少なくないと思う。人のせいにするように聞こえると本意ではないが、そういう先輩や大人のいなかったことがある種「低い天井」になって自分にのしかかっているのを、ぼくはこの歳になってもありありと実感することがある。一定レベル以上の大学へ行くと、以下の本を学部のうちに読み終える学生がいたりする、というのを知ったのは、つい最近のことだ。
Mimesis: The Representation of Reality in Western Literature (Princeton Classics)
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春の雪が舞う昨日今日あたり、冬の間ご無沙汰していたアナログ盤を鳴らしている。
マイルス・デイヴィス『クールの誕生』の音圧。いい意味で「ブラバン」ぽい音。あとは憂歌団。自由になりたいと願いつつ、半年が過ぎ、一年が過ぎ、またほこりっぽい春になる。我慢できずに春用ジャケット注文。サイズが合えばいいが。
わな~「いつか」はいつ来るかを巡って
見渡せば、私の周囲は「いつか」の夢でいっぱいだ。いつか着る服。いつか読む本。いつか行きたい場所。いつかに思いを巡らせ、思うにまかせぬ今を慰めてきた。気づけば夢や欲望は際限なく広がり、今度は何もかもが足りなく思えてくる。
だが、いつかっていつだ?人生はしょせん、今日の積み重ねである。
アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。
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本棚から、まだ出てくる、英米文学本。二つ目の大学で、ロシア語を勉強しつつ英語の本をポツリポツリ読んでいたころ、書い集めた本たち。ここ二年ほどだいぶやっつけたたつもりでいたのは一部にすぎなくて、まだかなりある。ヘンリー・ジェイムズなんか、ぜんぜん手付かずだ。やはり、いつか読むつもりで買ったもの。
で、そのいつかって、いったいいつなのかという話。ローレンスの"England,my England"は、たしか「読めそうだな」と思って買ったのだ。それを持って街を歩いていたときの光景を今でも不思議に覚えている。なら、当時間借りしていた部屋に帰ってすぐ読みはじめたかと言うと、当時はロシア語文法を大急ぎで仕上げることに忙しく、本棚に納めて、今に至っているのだった。
そのロシア語文法の復習を今日もやっていた。二年前、あの二つ目の母校へ行ったとき、定年を迎えた恩師を囲んで、現役の学生さんや教授たちと歓談した。非常勤講師のロシア人女性もいた。当時思うにまかせなかったロシア語をあやつるのは多少うまくなったかなと思いつつ話をしたが、あのときぼくにとっての「いつか」はすでに訪れ、実現していたのだろうか。
いや、当時買い集めていた英語小説をあらかた読んでしまうというときでも来ない限り、あの頃のぼくにとっての「いつか」は、今に至るも「いつか」のままだろう。ロシア語の文法問題も、むろん大学院を出たぼくには易しすぎる、と言いたいところだが、動詞の人称変化を数カ所間違える。
井上靖『あすなろ物語』も思い出深い小説で、「あすなろ」とはヒノキ科の常葉高木で、ヒノキに似るがヒノキではない。「あすはヒノキになろう」という語源からこの名があるという。去年、急に読み返したくなって書棚をかなり捜したが見つからず。中学の時夢中で読んだ本の一冊で、なかに、纏足(てんそく)や刺青(いれずみ)などの研究ばかりしている風変わりな医学者が出てくるのだ。なにか、自分もああなるんじゃないか、という予感がしたのは、当たらなかったともいえるし、ある意味大当たりだったともいえる。
なぜ学問に志すのか。あまり突き詰めて書かずにおくが、いつか学問の深奥を極めたいという憧れがあるからじゃないか。ある者はかなりの高みを上り詰めつつあり、ぼくのようなのはまだすそ野のほうでうろうろしているが、みんな、その「いつか」がまだ来ないからこそ、外国語の本なんか読んでいる。読むべき本は増えてゆくばかりで、「いつか」はいつまでたっても近づいてこない。その意味で、きみもあすなろ、ぼくもあすなろだ。
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サヴィンコフ『テロリスト群像』の一節~Macにもどる可能性を考える春の雪の日
シヴェイツェルは、最初の一言から静かな釣り合いのとれた力、という印象を与えた。ポコチーロフやカリャーエフに著しかった熱狂的な陶酔は、彼には感じられなかった。しかしその話しぶりや黙っている時の様子、意見を述べる時の落ちつき、悠揚迫らぬ態度によって、いつのまにか信頼を起こさせるのだった。わたしとの、この最初の会見では、ほんの僅かしか、それも仕事の話しかしなかった。
「人望」とか「信用」とかの生物学的な根拠。見た目や物腰の、こざっぱりした感じのよさや落ち着き。これは理屈じゃない。生理的なものだ。ぼくはオカルトや超能力のたぐいは信じないが、それと境を接する力が人間にはあって、それを「魅力」と呼ぶ。この「魅」の字が意味するものは、多分にわれわれが「魂」を持ついきものであることに由来するだろう。「魅力」ある人に「魅かれる」のは、理屈ではどうにもならない。そういうものの例として拾っておく。
ついでに英語も。
charisma ▶noun1[mass noun] compelling attractiveness or charm that can inspire devotion in others:
2 (pl.charismata) a divinely conferred power or talent:
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それにしても、「テロリスト」の意味がすっかり変わっているのにやはり驚く。上掲の書では、テロとは要人や政敵の暗殺のことだ。それが今では、不特定多数の市井の人々の生命や財産に危害を加えることの意味になっている。
明け方起き出して、CNNを観ていたら、米国では新たな大統領令が発令されたとかで、さきの大統領令で入国禁止の対象国となった7か国からイラクが除かれ、しかもその他の国の出身者でもグリーンカード保持者などは対象としないらしい。アメリカにおける行政と司法の力関係を見るよい機会だから、しばらく注意してみておこう。
ところで、マッキントッシュに今さらながらもどる可能性を最近検討しつつある。デスクトップのほうのPCが使い始めてまる5年で、すこし挙動が不安な時がある。ITunesのアップデートなどがうまくいかず、再起動するとまっくらな画面にポインターだけが見える状態、ということが数回あった。ここでは責任を負えないので書かないでおくが、そういうときの修復方法をSurfaceで調べて、何とか脱した。
今すぐじゃないにしても、パソコンが10年も使えると考えるのはまったく現実的じゃないから、新調するとしたらどうするかということを考える。テレビの機能はいらない。動画の編集などもやらない。Officeは使う。大画面で動画サイトを見ることも多い。でiTunesも使っているから、Macに戻るという手もあるのじゃないか。
MacならNisus Writerという強力なワープロソフトが使えて、もしまた必要があれば、むかし作った教材がそのまま使えそうだ。もうそんな機会もすぐにはないけれど。
動画、こんなの貼っておく。