俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

宵待草~〈いじらしさ〉をめぐって

  はじめて糸ひきに出る子をシンコ(新子)といったが、これは小学校四年(当時の義務教育)を出たか出ない十一,二歳のまだいたいけな子供である。それでも先輩格の「おねえさん」たちから教えられて髪を桃割れにし、赤い腰巻きにワラジをはいて、荷物も一人前に袈裟掛けにしょっている姿は、それはいじらしいものであった。[…]

 

あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 (角川文庫)

あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 (角川文庫)

 

  これ読み切れないうちに返しに行くんだが、買ってもいいな。なまじ外国語なんか読むより、こういうものを読んでおくべきだったのかもしれず、過去のことはもう仕方ないけれど、日本経済史や経営史にかかわる本は、今でもおもしろく読めたりして、自分でも意外だ。

 上の個所は、身近に姪たちを見てきた身にはずいぶん応える。ぼくの一族も決してお金持ちじゃないから、せいいっぱいの支度をして子を送り出す親や身内の気持ちはわかる。つい先日、下の子を送り出したばかり。甲斐性のない伯父としてはパソコンなども、決して高いものは買ってやれないのだけれど、それを大喜びで大事そうに抱えて持って行った。まだうちには、あの子らが小さな頃来ては遊んで行ったときの、落書きやら何やら、大切にとってある。

 下記の本も。終戦の年、樺太ソ連軍に侵攻されたさい、真岡郵便局の電話交換手の若い女子らが決死隊として残留し、青酸カリを服毒して自決した事件のこと。ぼくも人並み以上には知らず、ロシア語教師だったころもしこの文庫があれば、これをネタ本に一席打っていただろう。なにか野麦峠本に共通する、少女らの〈いじらしさ〉のみなぎりかたがもう半端ではない。

永訣の朝 (河出文庫)

永訣の朝 (河出文庫)

 

  そうなのだ。少女と国家との関係、そこに立ち上る〈いじらしさ〉こそが問われなくてはならないんじゃないだろうか。『あゝ野麦峠』のほうには

野麦峠はダテには越さぬ

 一つァ―身のため親のため

〽男軍人女は工女

 糸を引くのも国のため

 という歌が登場するが、『永訣の朝』のほうも、

「わたしは決死隊として残ることにしたけれど、あなたはどうするの。お父さんもいるんだから安心でしょう。必ず帰すから一緒に残らない?」

「わたしも残ります」

といったやり取りが登場し、なんかこのあたりをパラパラ読んでいるだけで、もうなんだかたまらなくなる。

 いつだか、高校の文化祭の仮装パレードに行きあったとき、都会の子らに比べてあか抜けない、小柄な女子たちを目の当たりにして、やはりその〈いじらしさ〉にふいに打たれて、数日ショックを引きずっていたことがある。

 で、以下のものは未見だが、手に入らないかなあ。

喜多郎の十五少女漂流記 [VHS]

喜多郎の十五少女漂流記 [VHS]

 

  

 

十五少女漂流記 (コバルト文庫)

十五少女漂流記 (コバルト文庫)

 

 


宵待草 ソプラノ 竹久夢二詩 多忠亮曲

 

 

けんかをやめて~recuse oneselfの定訳ってあるのか

 It's easy to use the court. They are using my case to intimidate other people...and scare others not to protest.

 一週遅れで『ジャパン・タイムズ』日曜版(2月26日付)を片付けているが、上の一節はカンボジアの土地紛争の女性活動家の発言。intimidateという動詞がカギ。裁判を利用して、他の人々を怖気づかせる…「一罰百戒」というのをどう訳するか考えていたことがあって、これはピンとくる。

 それにしても、知らない単語というのはなくならない。映画の記事でstoryboardって何なんだろう、と思いながら読んでいたが、これが「絵コンテ」。原発の記事で出てきたdecommissionは動詞で、「廃炉にする」の意。インドの大気汚染の記事で出てくるbronchitisが「気管支炎」。ruseという名詞もさいきん数回目にする。「策略」の意。swabは「モップ」の意味のほかに「綿棒;綿棒で集めた標本」の意で、マレーシアの事件の関連で出てきた。前にも書いたがtake inで「見物に行く」の意。

 それから、これはCNNでアメリカの司法長官のニュースで出てくる語だが、電子辞書のOED、

■recuse oneself (of a judge) excuse oneself from a case because of a potential conflict of interest or lack of impartiality:

 セッションズ長官は、自身のロシア外交官とのやり取りの合法性を捜査する件には当然関わりませんよ、というニュースで使われている。用例も引いておく。

Under existing law, such an allegation required the judge to recuse himself.

 現行法では、そのような申し立ての際には裁判官は自身が審理にかかわることを忌避する必要がある、と訳しておくが、定訳はどうなのかね。リーダーズにrecuse oneselfでは載ってない。

 本を読んでいると、こっちがあとまわしになるが、こうしてほんと定期刊行物を往復しているうち、どっちもだんだん楽になる気がする。とにかく、これまでがあまりにレベルが低すぎた。

 コーヒー屋さんに行って読む、というのをやってもいいのだが、最近はまったくやっていない。うちでやってても、大体同じだ。音楽を聴きながら読書はできないが、疲れたらCDなりアナログ盤なりに逃げられるのも吉。

 ノンアル飲料を買いに夕方外出。三月とはいえ、今日も外は寒かった。来週ぐらいにならないと、本当に冬が終わりつつある実感はわかないかもしれない。


河合奈保子 けんかをやめて

スキップ・ビート~ぼくも「土俵に上がらない男」と呼ばれて

佐藤 柚木麻子の『伊藤くんA to E』[…]という小説があります。

「伊藤くん」は、そこそこの大学を出た千葉の大地主の子供で、予備校の先生をやっている。仕事もクビになったりするけれども、シナリオライターになる夢を持っている。しかし一度もシナリオを書いたことがない。何よりも嫌なのが人に侮辱されることなので、勝負に出てシナリオを書くようなことは決してしない、絶対に土俵に上がらない男。見た目はちょっといい感じだからもてるけど、実はとんでもないやつだ[…]

 

  借りてきた本を、もう返す時期だ。五冊借りてきたうち、一番読みやすいこれすら読んでいない。

 パラパラ見たところ、上の個所に突き当たる。自分も誰かのことをこのようにあげつらいたい気もするし、そういう自分が「土俵に上がらない男」呼ばわりだったのか…という気もする。

 ただ、ぼくはつくづく宮仕えに向かない人間で、リーダー論とか組織論とかも、今さら読んでもこの身がどうにかなるわけでもないのだ。

 例えば、組織で働くうえで大切な協調性、といったこと一つとっても、そこには努力や心がけでどうにもならない部分があまりにも大きすぎると今の自分は考えたりもする。無理して他人に合わせようともがけばもがくほど、挙措はぎこちなく、笑顔も作り笑いにしか見えず、ますます他人に疎んじられる、ということが、少なくとも自分の場合、どうしてもあった。どう転んでも「変わった御仁」のカテゴリーから抜けられない。

 ただこれは、組織にとけこむ努力を徹底的にやったうえでの敗北の弁であって、そうでなければ、「石の上にも三年だ」「みんなしんどいのは同じだ」という空疎な叱咤激励に折れて、いまでも当たり前の組織人になる夢を捨てられなかっただろう。

 コミュ二ケ―ション能力、という言葉も昨今よく使われる(上掲書のことではない)が、昔はそんな言葉、少なくとも一般にはなかった。今でもあまり無条件に濫用しない方がいいと思う。要は知らない相手に好感を持ってもらえるかどうか、ということがカギなのではないか。好感を持ってくれた相手は、多少なりとも親身に話を聞いてくれるし、理解しようとしてくれる。こちらがいくら論理的であろうと、相手が心を開いてくれなければ、話が通じる可能性は低い。そして、ことば以上に、外見や物腰といったことが、相手の心を開くうえではすごく大きい。そこに「人望」ということが微妙に絡んでくる。

 官僚が、受験生時代の入試や模試の成績をいくつになっても自慢しあう「自己愛」ぶりが批判されているが、これは形を変えて広い意味での外国語産業などにも入り込んでいると思う。だから、他人事じゃない。 

 例によってはなし半分に読むべき本だろうけど、読んでおこう。

 ↓コード進行が今聴くとびっくりするほど新鮮だ。なつかしいな。


スキップ・ビート/KUWATA BAND【カバー】

 

伊藤くんA to E (幻冬舎文庫)

伊藤くんA to E (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

女は世界の奴隷か~ひな祭りに解くロシア語問題集

書店で、客が若い女性店員に向かって、

「『男は女の支配者』という本はおいていますか?」

幻想小説はとなりのフロアで御座います」 

 

 

自習ロシア語問題集

自習ロシア語問題集

 
自習ロシア語問題集 (1982年)

自習ロシア語問題集 (1982年)

 

  ひな祭りの北海道は、低気圧が通過して、ところによってはすごい風らしくて、こっちはそれほどでもないが、また荒れる。

 今日が桃の節句なのと、三月八日が国際婦人デーで、二つ目に行った大学の恩師が、ロシア急進思想の勉強を続けるうち、男女同権論やフェミニズムにくわしくなってしまって、思わぬ余禄だった、といった話を最終講義でしていたのが、もう二年前なんだなあ。

 あのとき、帰ってきて、猛然とヴァージニア・ウルフを読んだりして、すごく刺激を受けた。ただ、ジェンダー研究は、うかつには触ることのできないデリケートな分野で、ぼくなどが半端な英語力でそういう専門の本を読みこなせるとも思えず、あのときもまあ、ウルフの『自分だけの部屋』をとにかく原文で読んだ、それでやめといた。

 今年は、語学の総復習と言いつつ延ばし延ばしにしていた上記の問題集を半分弱やって、ところどころ忘れてるので、たしかにやる意義はあった。何年も、いっかいこれをおさらいしなきゃ、というのはわかっていて、それで悶々としていたのだが、取りかかってみると、ぜんぜん面倒ではない。一度目に苦労してやっただろうところがすいすい解答できて、楽しい楽しい。

 ただ、物主形容詞の変化なんか、だいぶあやしくなっているし、「泣く」という動詞の変化を完全に勘違いして解答し、冷や汗をかいた。第一変化だこれ。ずっと勤めていた大学では、このレベルまでのことを教えないカリキュラムで、まがりなりにも専門の教師を雇っておいて、ずいぶんもったいない話と思ったのだが、それはもういい。

 で、上記の会話が練習問題として出てくる。ロシア語を始めた数年は、テキストの中の、こうしたユーモアが好きだった。もちろん、ソ連時代には地下でささやかれていたようなアネクドートが官許の教科書に載るようなことはなかったから、これも、いかにもソ連ユートピアニズムの面はあるだろう(中村先生も多分ソ連で出ている教科書からこれを採ったと思うので)。

 で、ぼくのなかでは、男女同権論というとジョン・レノンだったりするのだ。うちにも何枚かCDがあるけれど、聴きたいときには出てこないもので、九百枚あるCDを全部入れるほどの高性能のパソコンは持っていないし、やっぱりストリーミングのサービスに入るのがこれからの流れなんだろうか。実は何度か検討はしているけれど。

 この曲は内山田洋&クールファイブなどと共通点を感ずるというと変だが、非アフリカンアメリカンによるR&Bの解釈例として面白いということはある。この曲想に詞を自由に乗っけるところなんか、ね。

 いかんこんな時間だ。英語はこれから読む。


John Lennon - Woman Is The Nigger Of The World

 

 

Women Writers of Meiji and Taisho Japan: Their Lives, Works and Critical Reception, 1868-1926

Women Writers of Meiji and Taisho Japan: Their Lives, Works and Critical Reception, 1868-1926

 
Romantic Women Writers: Voices and Countervoices

Romantic Women Writers: Voices and Countervoices

 

 

 

Japanese Women Writers: Twentieth Century Short Fiction: Twentieth Century Short Fiction (Japan in the Modern World (Hardcover))

Japanese Women Writers: Twentieth Century Short Fiction: Twentieth Century Short Fiction (Japan in the Modern World (Hardcover))

 

 

 

A Room of One's Own and Three Guineas (Oxford World's Classics)

A Room of One's Own and Three Guineas (Oxford World's Classics)

 
A Room of One's Own (English Edition)

A Room of One's Own (English Edition)

 
A Room of One's Own (English Edition)

A Room of One's Own (English Edition)

 

 

 

A Room of One's Own and Three Guineas (Vintage Classics)

A Room of One's Own and Three Guineas (Vintage Classics)

 

 

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 

ロックンロール県庁所在地~しごとのメールで遅くなっちまった

佐藤 スポーツ観光国家委員会の初代のトップ、タルピシェフは、クレムリンエリツィンの隣部屋に執務室を持っていたのですが、私はたまたま彼と親しくなり、この「スポーツ組」の世界の一端を垣間見る機会を得ました。アントニオ猪木さんがモスクワを訪問した時のことです。

 ソ連時代、表向きプロレスは禁止されていました。しかし、あの有名な「猪木・アリ戦」の一六ミリ映像が地下で流通していて、猪木さんはかなりの有名人。日本大使が会いたいと言ってもなかなか会えないタルピシェフに、猪木さんが表敬訪問を申し込んだら二つ返事でOKで、クレムリンに入って私が通訳することになったのです。

 

  なるほどね。16ミリというところがなかなかリアル。で、今はプロレス、どうなんだろう。全然知らない。

 明日がひな祭り。二年前の今ごろは、千歳のホテルだったっけ。この時期はわりと研究会シーズンでもあるけれど、へき地の暮らしだとあちこち行くこともできず、まあ仕方ないな。

 二年前はとんかつを食べて旅に出たけれど、今日はザンギで夕食。北海道以外の人は知らない言葉だろうけれど、とり肉を甘辛いたれにつけこんで揚げた唐揚げのこと。釧路が発祥だったとかそんな話だけれど、北海道人はあんがい内地に行って「ザンギ食いてえな」とか言って怪訝な顔をされたりという経験をした人、少なくないんじゃないか。

 ちらし寿司が食べたいけれど、老母ももう歳で、作ってとも言えず、どこかで買ってくるか。長崎のカステラが届いて、それがひな祭り仕様で、紙の台紙を折り曲げたらお内裏さまとお雛さまになって、TVの台の上に飾ってある。

 語学はこれから。「しごと」のメールのやり取りしていて、すっかり遅くなったけど、少しでもやっておく。

 


森高千里 『ロックンロール県庁所在地 (2015 Ver.)』【セルフカヴァー】

 

 

Time is Tight~語学徒の冬学期ももう三月

 人はよく御維新とか、文明開化と簡単にいうが、鹿鳴館のはなやかさにしても、電信電話も、汽車も汽船も鉄砲も軍艦も、イルミネーションも、さては洋学洋書も、技術者を招いても、それには大変なゼニが必要だったはずである。そのゼニはいったいどこから持ってきたのか? ここが一番大事なところである。こういうことを無視して明治を論じても意味がない。

 例えば明治政府がとった初期の官営殖産興業政策にしても、多くの「外貨」が必要だった。鉄道、鉱山、造船、海運、農蚕、その他諸工業等、ここに雇われてきた、いわゆる「お雇い外国人」の俸給は、明治七年政府統計でみると、太政大臣三条実美の八百円と同額のものが十人もいた。重臣岩倉具視の六百円、参議大久保利通の五百円よりそれぞれ二、三百円も多い額である。こんなのを含めてお雇い外人の数はそのころ政府雇いだけで五百人、民間雇いはもちろんもっと多かった。特に工部省のごときは通常経費の約三分の一が、この外国人技師の人件費に支払われていた[…]

 

  三月になった。今から五月末までが、ぼくの一番好きな季節だから、無駄にせぬようしっかり過ごそう。

 で、語学徒の冬学期と言いつつ、方向性を見失いかけていた。〈ひとり原書講読〉はいいとして、アプダイクの『S.』を途中まで読んでいて、これは本来やるべきことからすれば逸脱がはなはだしいのにいやでも気づかざるを得ない。

 で、そっちは中断し、今日からロシア語の問題集のおさらいをやり始めた。二十数年前、大学院に入る前にやった、懐かしい問題集だ。先日の札幌で、やはりこの問題集の話になり、いろんなことを忘れているのに気づけて効果的、という話になったのだった。で、ガーっとやっている。ただし、ひと通りやるのに10日もかけないつもり。一回ざっとやって、また見直す、の繰り返しでいいだろう。

 なかなか侮れないのは、「ライ麦」という名詞の文法上の性がすんなり出てこなかったり、「旗」という名詞の複数形を間違えたり、という点で、それこそは語学が「錆びつく」ということなのだ。過去に一回やって、間違えたところにはしるしがしてある。そこは案外間違わない。思わぬところを忘れている。

 この問題集も、処分せずにずっと持っていたもの。一度、屋根から雨漏りがして本を何冊もだめにした時があったが、そのときこれも被害に遭った。しかし、これとメアリ・シェリー『フランケンシュタイン』の初めて買った版は、きちんと乾かし、また使えるようにしておいた。

 あれから六年くらい経つと思う。おかしなもので、大学に籍がなくなってから、ふしぎと最初に行った、もう縁の切れてしまった大学のことを夢に見るようになった。けさも、夢の中ではあの最初に行った大学にまた再入学しようとしていた。かつての同級生だったらしいおじさんらが出てきて、そちらは、自分の子弟を入学させに来ているのだった。大学に入り直す夢を今後も見続けると思うと、あんまり愉快ではないわな。

 最初の大学で、日本経済史などをやる機会もあったが、そちらに行っていれば今ごろ何をやっていただろう。学問の世界にとどまる可能性は低くて、やはり塾の先生をしていただろうか。経済史をやるにしてもやはり、(日本語の古文書なども含めて)語学、なんだよなあ。経済学部出身でありながら翻訳家だったり、歴史家だったり、思想研究者だったりと言う人らは、たいていは東京などの有名大学を出ている。そういう道が、田舎にいるとまったく見えない、そのことによる回り道やら何やら。

 レーニン『哲学ノート』(ロシア語)も数ページ読んだが、おもしろいことはおもしろいけど、語学の練習にはならないや。


Booker T. & The MG's - Time Is Tight

 

自習ロシア語問題集

自習ロシア語問題集

 

 

 

自習ロシア語問題集 (1982年)

自習ロシア語問題集 (1982年)

 

 

 

レーニン哲学ノート〈下巻〉 (岩波文庫)

レーニン哲学ノート〈下巻〉 (岩波文庫)

 
レーニン哲学ノート〈上巻〉 (岩波文庫)

レーニン哲学ノート〈上巻〉 (岩波文庫)

 
哲学ノート (1) (国民文庫 (127a))

哲学ノート (1) (国民文庫 (127a))

 
レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読

レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読

 

 

ガールフレンド~共産圏アニメ研の論集届く

 もう一つの深刻な疑問がある。そもそも、個人でこんなに集めても絶対に読まない本もあるのではなかろうか。読みもしない本を集めるなんて全く無意味ではないのか。

 いや、そうではない。SFとは「実現しないかもしれないが、ありえるかもしれない世界」を描く文学である。読む可能性はゼロではない。一方で、学問の世界は完全な真実を目指すものであるから、百あれば百を解明しなければならない。しかし、人生においては百を目指せないこともある。その時、ゼロのまま終わるのか、百はなくとも80を目指すのか。そこが問われている。[…]

宮風耕治「私的ロシアSFコレクション論━ゼロ年代の出版事情とともに」、『共産圏アニメSF研究会論集』、二〇一七年二月、出版地記載なし)

 札幌からメールが来て、上記の論集を送りましたとのことで、明日着くかと思ったら、今日届いた。

 ロシア、中国、ベトナムチェコ北朝鮮といった国々のアニメ、SF、戦争映画などが取り上げられている。なかでもロシアSF研究者である宮風さんの論文は(これはアニメとは関係ないが)、在野の研究者らしく、限られたリソースでどれだけの範囲の本をいかに集めるかという蒐書哲学に貫かれた、濃厚な論文だ。自身の体験がふんだんに織り込まれているが、たんなるエピソードの羅列に堕しておらず、ソ連崩壊後のロシア出版史の風景描写たり得ている。

 で、現地で買う、日本の洋書店のカタログで買う、ネットで買う、しかもロシアのネット書店OZONのみならず、USアマゾンでロシア書を買うという裏技も書かれていて、集めたロシア語SF関連書が千数百冊という、その結論部分で吐露されているのが上記の一節。

 読みもしない本を集めるのは無駄、という極めつけの実利主義に対し、個人では限界があるけれども、それでも本を収集し続けるんだ、もともと文学は有限の生の中でという制約を受けた、限界含みの私的営為だったじゃないか、という人生観を対置する結論部分は、きわめて読みごたえがあった。

 「読む可能性はゼロではない」という一文。これが、この論文の全重量を支えている。生きている限り、そして手元に文学作品の現物がある限り、書物は読まれ、発火する可能性を秘めている。ここに、「今読まない本はどうせ読まないのだから」という通俗的な「断捨離」の原則をあてはめるのは、「文化的に見て」という限定もなにも必要としない、全き蛮行そのものだ。

 …いや、ぼくが熱くなる筋合いでもないのだが、老母がよく、学のある入植者のところに後妻さんが来て、山のようにあった原書をすべて燃やして処分してしまったむかし話をよく語るもんだからね、つい。

 二月が終わる。二月逃げる、というほど速くもなかったけど、ほっとする。語学徒の冬学期、大詰めだけど、単語集とか、問題集とか、どーすんの。完全に〈ひとり原書講読〉モード。


オックス「ガールフレンド・ライヴバージョン」

 

 

 

ロシア・ファンタスチカ(SF)の旅 (ユーラシア・ブックレット)

ロシア・ファンタスチカ(SF)の旅 (ユーラシア・ブックレット)